ぞよ。(と斯う言つたとき、坊主は思はず嬉しさにニタ/\と相好を崩した。)わしは今夜は大切な用向きがあつてな、昼うちだけ寒原さんへお勤めに行くよつてな、お前は今夜わしの代役でお通夜の主僧とおいでなすつたぞよ。ありや/\、どうぢやな、てへへん、嬉しくて有難くつてこつたへらんところだらうが……」
 と、斯う言はれた小僧は当年十四歳であつた。勿論生れた時から数へてのことで、小僧になつてから十四年も劫を経たわけではなかつたのである。勘の素早い小僧はむつとした。それから、前垂れで頬つぺたをこすりながら、ひどく深刻な、むつかしい顔付をしたのである。そして、
「わたしは、まだろくすつぽ、経文を知らんですがねえ……」と言つた。
「なになに、ええわ、本を読みなされ」
「字が読めんです」
「この大とんちきめ!」と坊主は思はず怒鳴つたが、大事の前で軽率な怒りから身を亡してはならないのである。そこで今度は教訓的な真面目な顔をこしらへた。「小僧といふものはな、習はん経文も読まねばならんもんだぞよ。うへん、ま、仕方がないわ。知つとるだけの経文を休み休み繰り返しておきなされ。WAH! こうしてゐられん! WAH! これよ。衣をもてよ」と斯う叫ぶとあたふたと着代へをして、「頓珍や、よろこべよ、今夜はお前も結構な御馳走をおよばれぢやよ。夕食の仕度はいらんぞよ」と大事な言葉を言ひ残して慌ただしく出掛けて行つた。と、そのとたんに、殆んど入れ違ひといつていい宿命的な瞬間に、五十がらみの村の男――権十と呼ばれる村の顔役が泡をくらつて跳び込んできた。
「和尚さんはどうしたあ! 大変なことができちやつたい! WAWAWA! 村は一大事ぢやよ。和尚さんてば。水をくれえ。お茶がええ。……」
 そこで小僧は和尚のたくらみに恨《うらみ》骨髄に徹してゐたので、和尚の運《めぐ》らした不埒な魂胆を権十に洩らしたのである。と、権十は和尚が不在の理由をきき、愕然として顔色を変へたが、すこしも早く、OH! さうだ、といふ凄い見幕を見せると、わつ! とも言はず和尚のあとを追ひはじめた――と、この出来事はここのところで有耶無耶《うやむや》になつて、話はべつに村の一方の恐慌《パニック》へ飛ぶのである。
 まだ朝の十時頃のことであつた。わが帝国の山奥に散在する此等の村で、丁度この刻限がどんなに平穏な人生を暗示するかといふことは想像しただけでも気持のいいものである。とはいへ季節が秋だつたので、山もそれから山ふところの段々畑も黄色かつたり赤ちやけてゐたり、うそ寒い空の中へ冷たい枯枝を叩き込んでゐたりした。いはば荒涼とした眺めであつたが、それにも拘らず田舎はいつも長閑《のどか》なものだ。時雨が遠方の山から落葉を鳴らして走り過ぎて行くかと思ふと、低迷したどす黒い雲が急にわれて、濃厚な蒼空がその裂け目からのぞいたりした。鈍い陽射しが濡れた山腹の一部分だけさつと照らしてゐるうちに、もう又時雨が山の奥から慌てふためいて駈け出してくる。丁度さういふ時刻だつた。わが勤勉な百兵衛は平楽山の段々畑の頂上から三段目を世話してゐた。すると、突然谷底の窪地から一つの黒い塊が湧きあがつてきて導火線を這ふやうに驀地《まっしぐら》にせりあがつてきたが、音もたてずに百兵衛の腰へしがみつくと二人は全く一つになつて畑の中へめり込んでゐた。そのはづみに百兵衛は脾腹を強《した》たか蹴りあげられて、秋のさなかへあつさり悶絶しやうとしたが、すると異様な人物は、「とつつあんや、苦しかつたらぢつと我慢しなよ。人は苦しくない時に我慢といふことの出来んもんぢやからな。村は一大事ぢやぞ!」と斯う言つて苦悶の百兵衛を慰めたので、これが倅の勘兵衛であることが分つた。
 このやうな、いはば革命を暗示するやうな悲痛な動揺が、已に収穫《とりいれ》の終つた藁屋根の下でも、樵《きこり》小屋の前でも、山峡《やまか》ひの路上でも電波のやうに移つていつた。実際その瞬間に、ああ此の村はどうなるのだと思はせたに違ひない。村全体が一つの重々しい合唱となつて丁度地底から響くやうに、「斯うしちやあ、ゐられねえ。斯うしちやあ、ゐられねえ」と呻いた。それから、村そのものが一つの動揺となつて、居たり立つたり空間の一ヶ所を穴ぼこのやうに視凝《みつ》めたり、埋葬のやうにゆるぎだしたり、ぢりぢりと苛立ちはじめたりした。そこで、感じ易い神経をもつた山の狸や杜の鴉がどんなに勝手の違つた思ひをしたかといふことは、彼等が顔色を変えて巣をとびだすと突然夢中に走りはじめたことでも分るのである。
 全く、同情ある読者諸兄は彼等の心情に一掬の泪を惜しまないであらうが、彼等は今や一年に一度の、いや、恐らく一生に一度かも知れたものではない山海の珍味を失はふとしてゐるのだ。成程これは残酷だ! 若しも彼等がお通夜帰りに婚礼
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