医学」とか「我等の医学士」なぞといふ理解に苦しむ言葉もあつた。まつたく、この村の歴史に於て医学が偉大であつたためしは嘗てなかつたことである。半左右衛門は極度に狼狽した。うつかりすると婚礼と通夜と取り違はれたことかも知れない。なんにせよ、薄気味悪い出来事である。そこで彼はおどおどして玄関へ出て行つたが、衝立《ついたて》から首を延ばしたとたんに、不可解至極な歓声にまき込まれてぼんやりした。
「わしはハッキリ分らんのだが……」と半左右衛門は泣きほろめいて手近かの男に哀訴した。「いつたい、生きたとかお目出度いとか、つまり何かね、わしが斯うして生きてゐるのがお目出度いといふことかね? そんならわしは、わしははつきり言ふが、お目出度いことはない!」
「へえ、まつたくで。(と一人が答へた)旦那の生きてることなんざ、お目出度くもありませんや。ありがたいことには、旦那、隠居が生き返つたと斯ういふわけでね。医学は偉大でげす。ねえ、先生!」
「然り!」と、偉大な医学者は進み出た。「当家の隠居は一日ぶん生き返つたのである。偉大な医学を信頼しなければならん! それ故偉大な医学士を信頼しなければならんのである!」
「婆さんが生き返つたと?」と、半左右衛門は吃驚して斯う訊いたが、「あ! 婆さんが生きた!」と、今度は突然雀躍りした。「婆さんが一日生きた! ありがたい。通夜は明晩にきまつたよ。婆さんが一日ぶん生き返つたとよ!」
「知りませんよ!」とこの時お峯は不機嫌な顔を突き出した。「お前さん方はなんといふ呑んだくれの極悪人の気狂ひどもだらう! うちの婆さんは朝から仏間に冷たくなつて寝てゐるんだよ!」
「それが素人考へといふもんだ!」人々は一斉にいきりたつて怒鳴つた。「医学といふものは偉大なものだ! 素人に分らんからして偉大なものだ!」
「お峯や、心をしつかり持たなければならんよ」と、半左右衛門も斯う女房をたしなめた。「なにせ医学といふもんはたいしたものでな。わしらに理解のつくことでない。偉い先生のお言葉には順《したが》はねばならんもんぢや」
と、この言葉は成程語気は弱かつたが、いつもに似ない頑強な攻勢を窺ふことができたのである。恐らく彼は嬉しまぎれに後の祟も忘れてゐるに違ひない。してみると此の場はお峯の敗北である。そこでお峯は棄鉢《すてばち》の捨科白を叩きつけるといふ最も一般的な敗北の公式に順つて、自分の末路を次のやうに結んだ。
「何んだい、藪医者の奴が! 注射で人を殺した偉い先生があるもんかね!」
「いやいや、さういふもんでないぞ。(と。見給へ、半左右衛門はなほも攻勢をつづけるのである!)偉い先生のことだから患者は死ぬだけのことで助かつたといふもんでないか! これが素人であつてみい、どうなることか知れたもんでないぞ」
とたんにお峯は鬼となつて部屋の奥へ消え失せた。――半左右衛門の後日の立場は全く痛々しいものに違ひない。熱狂した群衆の中にさへ半左右衛門に同情を寄せて、ないない気の毒な思ひをした者も二三人はあつたのだ。ところが半左右衛門自身ときては、益々有頂天になりつつあつた。彼は嬉しさのあまり身体の自由がきかなくなつて、滑りすぎる車のやうに、実にだらしなく好機嫌になつたのである。彼は揉み手をしながら、村の衆に斯う挨拶を述べた。
「わしもな、ないない一日ぶんがとこ何んとかしたいと考へとつたが、医学ちうものがこれほど偉大のもんだとは! なにせ学問のないわしのことでな。まさかに生き返るとは思ひよらないことぢやつた。なんとお目出度い話ぢややら……」
「旦那は孝行者ぢやからな。さうあらう……」と、木訥な一人が感激に目をうるませて叫んだ。「何よりお目出度い! これよりお目出度いことはない! 旦那、まづ何よりも祝ひの酒だよ!」
酒! 驚いた! 迂闊にも程があるといふものだ! 吃驚した群衆は慌てふためいて叫んだ。
「祝盃だ! 隠居の誕生日! 酒! 酒々々々々々!」
「しかし……」と、半左右衛門は明らかにうろたへた。それから彼はひどくむつ! として、
「しかし、婆さんは死んどるわな!」と言つた。
「おや! 素人の旦那が! 旦那は何かね。自分の母親を一日早く殺さうといふ魂胆かね!」
と、例の木訥な農夫は殆んど怒りを表はして斯う詰《なじ》つた。すると駐在所の巡査は、群衆の陰から肩を聳やかして、佩刀《はいとう》をガチャ/\いわせたのだ。半左右衛門はしどろもどろとなつたのである。
「わしは別に殺しはせんよ。婆さんは今朝から死んどるといふのに。……」
「おや! 誰が言ひましたかね!」
「医者が――」
「えへん!」
と咳払ひをして医者は空を仰いだ。半左右衛門は口をおさへて、頬に泪を流したのである。進退全く谷《きわ》まつたのだ。突然、しかし必死の顔をあげると、彼は物凄い形相で慌た
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