ぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。
 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術《すべ》のない宿命を帯びている。
 善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人|曠野《こうや》を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。
 悲しい哉《かな》、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって、永遠に救い得べきものではない。
 尾崎|咢堂《がくどう》は政治の神様だというのであるが、終戦後、世界聯邦論ということを唱えはじめた。彼によると、原始的な人間は部落と部落で対立していた。明治までの日本には、まだ日本という観念がなく、藩と藩とで対立しており、日本人ではなく、藩人であった。そこで非藩人というものが現れ、藩の対立意識を打破することによって、日本人が誕生したのである。現在の日本人は日本国人で、国によって対立しているが、明治に於ける非藩人の如く、非国民となり、国家意識を破ることによって国際人となることが必要で、非国民とは大いに名誉な言葉であると称している。これが彼の世界聯邦論の根柢で、日本人だの米国人だの中国人だのと区別するのは尚原始的思想の残りに憑かれてのことであり、世界人となり、万民国籍の区別など失うのが正しいという論である。一応傾聴すべき論であり、日本人の血などと称して後生大事にまもるべき血などある筈がない、と放言するあたり、いささか鬼気を感ぜしむる凄味があるのだが、私の記憶に誤りがなければ彼の夫人はイギリス人の筈であり、日本人の女房があり、日本人の娘があると、却々《なかなか》こうは言いきれない。
 だが、私は敢《あえ》て咢堂に問う。咢堂|曰《いわ》く、原始人は部落と部落で対立し、少し進んで藩と藩で対立し、国と国とで対立し、所詮対立は文化の低いせいだというが、果して然りや。咢堂は人間という大事なことを忘れているのだ。
 対立感情は文化の低いせいだというが、国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。むしろ、文化の進むにつれて、この対立は激しくなるばかりなのである。
 原始人の生活に於ては、家庭というものは確立しておらず、多夫多妻野合であり、嫉妬もすくなく、個の対立というものは極めて稀薄だ。文化の進むにつれて家庭の姿は明確となり、個の対立は激化し、尖鋭化する一方なのである。
 この人間の対立、この基本的な、最大の深淵を忘れて対立感情を論じ、世界聯邦論を唱え、人間の幸福を論じて、それが何のマジナイになるというのか。家庭の対立、個人の対立、これを忘れて人間の幸福を論ずるなどとは馬鹿げきった話であり、然して、政治というものは、元来こういうものなのである。
 共産主義も要するに世界聯邦論の一つであるが、彼らも人間の対立に就《つい》て、人間に就て、人性に就て、咢堂と大同小異の不用意を暴露している。蓋《けだ》し、政治は、人間に、又、人性にふれることは不可能なのだ。
 政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。天皇制というカラクリを打破して新たな制度をつくっても、それも所詮カラクリの一つの進化にすぎないこともまぬがれがたい運命なのだ。人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
 私は元来世界聯邦も大いに結構だと思っており、咢堂の説く如く、まもるに価する日本人の血など有りはしないと思っているが、然しそれによって人間が幸福になりうるか、人間の幸福はそういうところには存在しない。人の真実の生活は左様なところには存在しない。日本人が世界人になることは不可能ではなく、実は案外簡単になりうるものであるのだが、人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。この生活は世界聯邦論だの共産主義などというものが如何ように逆立ちしても、どう為し得るものでもない。しかして、この個の生活により、その魂の声を吐くものを文学という。文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
 人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着《おちつき》と訣別《けつべつ》しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。闇の女は社会制度の欠陥だと言うが、本人達の多くは徴用されて機械にからみついていた時よりも面白いと思っているかも知れず、女に制服をきせて号令かけて働かせて、その生活が健全だと断定は為しうべきものではない。
 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。



底本:「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年6月26日第1刷発行
底本の親本:「堕落論」銀座出版社
   1947(昭和22)年6月25日発行
初出:「文学季刊 第二号(冬季号)」
   1946(昭和21)年12月1日発行
入力:砂場清隆
校正:宮元淳一
2006年1月11日作成
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