が、その後批評家の反撃黙殺にあってクサッてしまうと、四十歳までは全然下らない作品ばかり書いていた。つまり自由の魔の手にかかったので、暗中模索、これは迷路だ。人間はクサッてしまうと、迷うばかりで、もてる才能もどうにもならぬ。
二十六から四十までのドストエフスキーは「マシな作品」を書く能力がなかったのでなく、書く条件を失っていたのだ。後年流行作家となったドストエフスキーは俗悪な取引に応じて持てる力量を全的に発揮した。人力はたよりないものだ。
(下)
全然の無名作家がこれからの希望をいだいて小説に没入するのと違って、一度ともかく文筆で生活した者が、もう原稿が売れなくなり、書いても金にならぬとなると暗澹たるもので、こうしてクサッてしまうと、もうダメなものだ。
書くか書けないか、本当の仕事ができるかできないか、その問題の根本はこういう物質的なところにあるもので、高見君の言う如くに自ら嘆いてはダメだとか、外部条件をのろうなどとは、何たる自棄、何たる頽廃であるか、そんな精神的な問題ではない。
ともかく金になり商品として通用する当《あて》がなければクサるばかりで焦ってもロクなものは書けるものではない。平安朝の昔の物語類が金になったか、ならなかったか、そんなこととは違うので、平安朝と現代とでは違う。現代では、そうだ。
日本の道学先生は金になろうがなるまいが俯仰天地に愧《は》じざる良心的な仕事をしろ、とか、オカユをすすって精魂つくして芸にはげめ、名も金もいらないとか、まるでもう精神そのものの御談議で、芸ごとでも同様、名人気質と称して、やっぱり名も金も不純俗悪のようなことを言う。
芸術の純粋性というものは、そんなところにあるのではなくて、心の励みを与える外部の力、条件が必要なものだ。それは芸術の才能の問題ではなく、人間の心や力というものが本来はかなく、たよりないものなのである。
人間はたれしもウヌボレはある。落伍者でもウヌボレはある。然しそれは全く実体のないあだなウヌボレにすぎなくて、それがなければ首でもくくるより仕方がないからのはかない生きる手がかりにすぎない。ドストエフスキーほどの大天才でも人が才能を認めてくれるから自分の才能に「実際の」自信がもてたので、不遇時代のドストエフスキーは旺盛なウヌボレはもっていても本当の自信はなくて、だからただもう人真似ば
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