ん訪れてきても、地上に友達を持たないやうに必ず一人きりだつた。これは草吉がまたさうだつたのだ。さうして二人は友達になつた。
当太郎が好きな女は忍と同じ年輩の、店の名前をマリヤといふ当時二十三歳の文学少女くづれだつた。骨のやうに瘠せてはゐたが病的に旺盛な性慾をもてあましてゐる女で、その女の一切の悲願が性慾の二字に尽くされてゐることを、黒くよごれた眼のまわりと猛禽の鋭い眼付によつて、隠すことなくむきだしてゐた。マリヤも自らの言葉によつて、それを言ひきつてゐたのだ。客の間に誰言ふとなく彼女を山猫と称ぶ習慣がついてゐたが、これは極めて適切にマリヤの内外全ての実相を言ひ当ててゐた。
こんな処に働いてゐる女達は、我々が卑小な現実をより以上に高めやうとあせるところの多くは空しい企てにとつて、全く縁がないのだつた。建設的な労力、無窮の精神史が探究に疲れてきた貴重な真理、さういふものは彼女等に全く無用なのだ。彼女等はそんなものに見向きもしないし何も知らない。然し我々の実相を、その最も肉体的な、原始的な、本能的な角度から眺める限りに於て、余言をさしはさむ余地のない適切を洞破するものも彼女等だつた。
肉体を超えたところに自らの真実の根をおろしたいと焦せるところの若々しい真剣な懊悩、さうしてその懊悩に青ざめきつた若者の不羈独立の魂は、肉体に全てを賭けて身ぢろぎもしない彼女等の前に現れるとき、往々全ての理想を地に砕かれ、絶望の安息を感じることがある。当太郎がさうだつた。
彼は山猫に一種の救ひを感じたのだらう。さうして、その山猫と二本の材木のやうに重なりあひ絡みあつて沈湎するところの暗黒の行に一層の救ひを空想した。ところが山猫に惚れてしまふと、相手は肉を売る商売女に拘らず、当太郎は女に言ひよる大事な度胸がなくなつたのだ。これは奇妙な話だつた。
山猫に惚れてしまつた当太郎は、どういふ複雑な思ひつきからきたものか、身体の八方に繃帯をまき、重病人の風態をして通ひはじめた。左腕は首につるし、右足は仰山にびつこをひき、竹の杖に縋りながら奇妙奇天烈な腰つきをして、ひどい渋面をつくりながら街を通つてくるのである。それが毎日のことだつた。あとで判つたところによると、当太郎は微塵も怪我をしてゐないのだ。
酒場へくると山猫には見向きもしないで、他の女と凄く真面目に話しこんだ。その女と毎晩泊つて、たうとうしまひに同棲してしまつた。山猫には始めから言ひ寄りもしないし、山猫の方でも贋病人を眼中に入れてゐなかつた。
好きでもない女と同棲して二月《ふたつき》すぎると、自分でもわけが分らず這々《ほうほう》の体で逐電した。女から逃れたといふよりも、もつと大きな異体《えたい》の知れない圧迫に脅やかされて、夢中に逃げだしたといふ形だつた。何物かに追はれる思ひで、人気離れた山奥を八方に逃げまはつたあげく、信濃の宿で自殺を企て、生き返つたのを機会にして舞ひ戻つてきた。そのときから一ヶ年半すぎてゐた。
舞ひ戻つてのち、草吉の新居を始めて訪れたのは五ヶ月ばかり前のことで、深夜の街をうろついてゐたばつかりに留置場へ投《ほう》りこまれた帰りだと言ひながら、南京虫に食はれた傷を痛がつてゐたが、すこし休ませてくれと言つて白昼午睡して帰つていつた。すると翌日手みやげを持つてすぐやつてきた。それから繁々と訪れはじめた。
その様子をみてゐると、忍の異母妹で弥生といふ十九の娘が草吉の住居に同居してゐるのであつたが、当太郎はその娘に気があるのだといふことが人々に判つた。
さういふことが判つて一月ほど経過した一日のこと、彼は突然羽織袴といふ見慣れぬ風体で現れた。部屋へ通ると、特に弥生に同席を願つておいて、改めてキチンと坐り直したかと思ふと、却々《なかなか》しつかりした口調で幾分早口に求婚の言葉を述べた。それから誰一人挨拶のできないうちに、こんどはひどく落付払つて、一段と声を改めたうへ、自己の懐く人生観といふものを諄々と説き明しはじめたのだ。これが朗誦とか演説とでも言ひたいやうな代物で、まづ立板に水を流すが如しといふか、三十分あまりのべつ口きらずに喋べりまくつたのであつた。
呆気にとられて控えてゐた一座の面々、漸く話に一段落がついたときには、当太郎の落付払つた一瞥をくらつて矢庭に我に返つたとはいふものの、単に甚しくホッと一息ついた形で、さて改まつて返答を探し直すには充分骨の折れる状態だつた。この様子を見てとると、当太郎はまるで待ち構えてゐたやうに更に一段と声を改め、今度は何やら一層うねうねした高遠な心境を弁じはじめたのであつた。これは正味一時間たつぷりのものだつた。草吉の耳にはプラトンだとかエピキュロス、フッサル乃至はボードレエル、パスカルなぞといふ聞き覚えの名前が、あちらで一つこちらで一つ飛びこん
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