つきり心をうちあけた日も、あんな人たよりないわと、弥生は躊躇なく二人の人に言つた。殆んど関心がもてないやうすであつた。ましてそれからの二ヶ月あまり不意に音沙汰がなくなつてしまふと、当太郎が落していつた幾らでもないしみ[#「しみ」に傍点]は弥生の心から跡形もなく立ち去つてしまひ、久方振りで南の旅から帰つてきても、弥生はなんのこだわりもなく無関心で、全てが過ぎ去つた様子であつた。新らたな変化は当太郎の自殺未遂から起つたのである。さうとしか思はれないのだ。
「へえ、そんなことを一日むつつり考へこんでゐたのかね! この娘《こ》は! 油断ができないね!」
忍はひどく面食つて、素つ頓狂な大声で叫んだ。
「だつて会ひたいんだもの」
弥生は涙をふいて言つた。
「会つてどうするのさ」
「どうするつて、会ふだけでいいのよ」
「首をくくられて、惚れたんかね。あんたも相当ないかものぐひだよ。結婚しませうつて言ふつもりなの?」
「ううん」
弥生は首を横にふつて、暫く俯向いて黙つてゐたが、独語を呟くやうに言つた。
「今迄と違つた気持で会つてみたいのよ。だつて、今迄はあんまりあたしが何も考へてゐなかつたわ。だから、考へながら会つてみたいのよ」
「あんたも相当にしよつてるよ。あんな自殺は、あんた一人のせゐぢやありませんからね。藪さんの自殺なんて、八幡の藪知らずでリュウマチの貉《むじな》が迷つてゐるやうなもんですよ。しよつちう気まぐれなんだからね。お前さん一人が迷はせてるんと思ふと、大変なまちがひなんですよ」
「それでもいいのよ。会つてみれば分ることぢやないの」
「さういふもんですかね! 勝手にしなさいよ!」
忍は癇癪を起しかけて立ち上つた。鏡のある方へ歩いていつたが、鏡をみずに、ねころがつた。
「昨日の今日だもの、藪さんだつて疲れたでせうよ。熱くらゐだして、今時分はうん/\唸つてるかもしれないよ」
「病気ならあたし看病に行くわよ……」
弥生は再び泣きださうとして、顫える笛の音《ね》のやうな細さで言つた。
「お兄さん! 藪さんをつれてきてよ!」
さう叫んで、弥生は再びけたたましい叫び声を発して泣きだしたのだつた。
「しやうがないね。藪さんちへ行つてきて下さいよ」
と畳の上へひつくりかへつた忍が言つた。
「うむ。行つてみるか」
草吉は唸りながら立ち上つた。
凍てついた夜の中へ歩きだした草吉は、自分の心に皆目目当のないことが、まもなく分つてきたのだつた。当太郎を訪ねたい気持は微塵もなかつたのだし、どこへ行きたい気持もなかつた。歩いてゐたい気持だけが分るのだつた。
幾つ目かの曲り角へ差しかかつた時は、碁会所へ行つてみやうかと思つた。然し遊びの相手をする見知らないの男のことを思ふと、すぐさま気持が滅入つてきた。ちやうどそこへ来かかつた親切さうな通行人を呼びとめて、自分の住居に近いあたりの出鱈目な番地を述べて道を尋ねた。生憎その男はこの界隈の地理を知らない人であつたが、草吉は悦ばしげになんべんとなくお辞儀をして別れることが愉しいのだつた。活動写真の看板を眺めに行かうかと考へてみたが、歩みは自然に暗い方へ向けられて、鉄道線路沿ひの、沼地のやうにじめ/\とした草原へ現れてゐた。線路を越した向ふ側に工場があつた。すでに全ての燈火は消え、夜空にくりぬかれた風洞のやうな、巨大な黒色の影となつてのしかかつてゐた。なぜか草吉はひかれるやうに四角な広い坂囲ひを一周した。大きな澱める虚しさが、草吉の心に休息に似た静かな愁ひを与へるのだつた。彼は心に呟いた。
――俺でさへあのほのぐらい線路へ今から横はりに行くこともわけがないのだ。さうしてそれが、単にこの巨大な風洞のやうな虚しい建物の影を見たからにすぎないといふのは、不思議なことだらうか。またその俺が、この巨大な風洞のやうな夜空の影を見たために港の酒場へ行つて女を膝にのせながら酒を呷つてゐたとしたら、それは不思議ではないのだらうか。…………
草吉の心はなぜか生き生きと浮きたつてきた。彼は自らの耳へきかせるやうに、声高に呟いた。
――あの風洞のやうな巨大な夜空の影を見て、さうして、死なうともしなければ港の酒場へ急がうともせず、かうしてただ暗い路を歩いてゐる俺の姿は、不思議ではないのだらうか。…………
草吉は暗闇の空へ顔を突きあげて笑つた。線路伝ひに停車場の方へ歩いて行つて、二三度暖簾をくぐつたことのある泡盛屋へはいつた。甘臭い、さうして癖のある液体を、無理に五杯のみこんだ。それから漸くのことで、当太郎を訪ねてみやうといふ心がたかまつてきたのだ。その時はもう九時であつた。
藪小路当太郎はかなり名の売れた割烹店の倅《せがれ》であつた。父親は死んでゐたから、本来なら相当に責任のある立場であつたが、店は専ら母親と妹がきり
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