と同じ方法だそうだが、平安朝の昔からあった。奈良朝以前にも仏教の渡来と共に浴室はあったし、それが湯浴か蒸気浴かは不明らしいが、地方の民家に蒸気浴があったことはたしかである。現在瀬戸内海の沿岸地方に石風呂の存在は多く、それは古い歴史をもつものらしいようである。又、京都郊外の八瀬《やせ》にはカマ風呂というものが明治まで在ったそうだ。そのいずれも石室の内部で生木を焚いて石を熱し、火が灰となった時を見て火消し装束の如きもので身をかためた若者が木履をはいて駈けこみ、急いで灰を掃きだして、海水でぬれたムシロをしく。そのムシロの湯気で石室内がモウモウとなった時に、人々はムシロの上へねて蒸気浴をするのだそうだ。この石ブロの多くは人家を遠く離れた無人の地にあり、五月から十月までというようなシーズンがあって、そのシーズンに近在から人が集り、近所のバラックに寝泊りして石ブロへ通うのだそうだが、よほど古い時代の風俗を感じるのは私の気のせいかしらん。奈良の般若坂に北山十八間という国宝建造物があり、癩者救済用の病院だった由、目下は戦災者の宿のない人たちがいつの間にやらこの千年前の癩病院へ何十世帯も住みついて動かなくなっているそうであるが、ここにも、病人のために造ったものらしい蒸風呂の跡を見ることができるそうである。
田舎の湯治場の風俗は、又、石ブロとほぼ相似た風俗で、一家族で一部屋をかり、自炊して湯治する。又、農村ではモライブロという風俗があり、いわば一ツの隣組で、代り番に自宅で風呂をたいて共同で浴する。必ずしも経済のためではなく、石ブロや湯治場同様、フロをもって休養時の集会所、社交場とみる遺風の片鱗ではあるまいか。
だいたい、どこの原始宗教でも、男女神交遊の伝説、オミキ、沐浴の三ツは附き物である。その食べ物や行事が神様のために捧げられるというのは、それが彼らの最大の愉しみであったからに相違ない。男女の道、酒、沐浴、この三ツは人間の最も古くからの愉しみだったに相違ない。
だが、色情も酒も現代に於ては愉しみであると共に、むしろより多いほど悔恨につきまとわれているものである。古代に於てはそうではなく、人間はもっと大らかで、神経衰弱的なところがなかったのであろうか。否、否。そうではなかったであろう。人間の神経は酒が生れた時にはもう脆かったろうと私は思うのである。
現在日本の湯治場のちょッとぬるい湯の温泉は、たいがい胃腸病と神経病にきく、というような極く有りふれた効能が書いてある。温泉が精神病にきくということは外国でも昔から言い伝えのあったものであるが、ぬるい湯にジッとつかっていれば精神が鎮静する。誰にでも目に見えて分ることだから、そういう効能がどこの国でも昔から言われていたのは当然であろう。
私はぬる湯が好きだから、ぬるい湯の温泉を好む。昔は旅費らしいものも持たなかったから、近在の百姓だけが湯治にくるような都会人の知らない温泉を選んで行くのであるが、するとそこが頭の病気にきく温泉で、頭の怪しい人物をかこんでその一家が各室を占めている。どこの部屋でも、その家族の一人に頭の怪しい人物がいるという風景に何回もでくわしたものである。実に日本の農村には頭の怪しい人物が多いものだということをシミジミ味わされたのである。精神病院へ行ってみてもそうである。農村だの漁村からの患者が多い。病院だの湯治に行かない患者の数は更に多いであろうと思われるのである。
神経衰弱は現代だけの物ではないのだ。モノノケだの神様だのが根強く信じられていた大昔には、人間の悩みの種は今よりも少いということは決してない。ただそれが神経衰弱だの病気だのとは考えられずに、キツネがついたとか、怨霊がついたとか、人に呪いをかけられたとか、神通力を得たとか、ミコだとか、そういう風に解釈されていただけであろう。にわかに人間が変った、バカ利巧になったとか、その利巧ということが今日の利巧とはちがって、キツネツキの占いの力の如きも昔に於ては利巧のうちであり得たであろう。そういうキチガイは無数にあったのだ。
大昔にあっては、酒というものも、酒に酔っている時の愉しさだけが酒の力であって、その翌日のフツカヨイの副作用の如きは酒のせいとは考えられていなかったに相違ない。梅毒はコロンブスのアメリカ発見以来全世界を征服したが、梅毒のためにウミが出たり腫れ物がでたりすることはすぐ判ったが、それから十年も潜伏して突然発狂するのが梅毒のせいだということは、実に十九世紀に至るまで判らなかった。十年も潜伏してでるために、それと梅毒とは別なものだというように、相当文明開化の時代になっても考えられていたのだ。まして酒の副作用で翌朝酔いがさめてから陰鬱になるというようなことが昔の人々に知りうるわけはなく、酒の力はその酒をのみ直接きいて愉しい時だけが作用の全部で、酒こそはたのしいもの、酔って泣くことはあっても、それ又たのしく、陰鬱なフツカヨイの如きは別の何かで、又酒をのめばそんなものは吹きとぶではないか。そう思われていたに相違ない。彼らの酒癖が健全だったのではなく、酒の害を知らない故に、大らかに見えるだけなのである。
現代はそのアベコベだ。人々はすべて事物の害のみを追及するに急であって、その利を会得しないのである。現代が昔とちがって神経衰弱なのは、その点だけだ。
人の愉しみは銘々好き好きのものであるから、各人の好むにまかせて、あげつらうべきものではないし、ヤキモチをやくべきものではなかろう。人間は働く機械ではなく、その休養をとり、愉しむのが当然だ。人間の愉しみは禁止せずに、その害を取り除くべく相共に努力すべきものではなかろうか。
肉体を健康にするスポーツが健全な愉しみで、そうでないものは不健全だというのも偏見だ。肉体的に健康だって精神的に健康だとは限らない。武士には文弱という思想があるし、農村へ行くと牛馬なみの働き者や力持ちが健全で、虚弱人や読書などするような人間は危険人物だというような考え方もある。然し実際はヘタな武道家はテリヤのように神経質な人物が多いものだし、農村の屈強な人物に誇大妄想や被害妄想が多いのは先程も申上げた通りである。だいたい百姓の酔い方は都会人とは違っている。我々はたいがい自分の芸ごとの話をする。大工でも左官でもそうである。色話か、自分の腕自慢か、そんなものだ。百姓は違うのである。自分の作ッた米やナスは人の物よりも品質がよいなどと語るのは極めて小数で、たいがい酔っ払うと、吉田がなんだ、片山の奴のあのザマは何だ、オレに天下の政治をやらしてみろ、というようなことを云いだす。又、農村では一寸ぐらいずつ垣根をずらして年々隣家へ侵略を試みるというような実に神経衰弱的なモンチャクが絶えないところでもあるのである。そうかと思うと系図などを持ちだして神がかり的なインネンをつけたり、何千年来|痼疾《こしつ》の精神病者の感濃厚な怪人物が多い。
健全な精神と、健全な肉体は別なものだ。そして、酒は肉体的には不健康であるけれども、精神にとって不健康だとは云えない。すくなくとも、私にとっては、そうだ。私に酒がたのしく、うまく飲めれば、私はこの上もなく健康に仕事ができるのである。
めいめいの愉しみは違う。魚釣りの好きな人、碁将棋の好きな人、ゴルフの好きな人、女の好きな人、各人各様にやるがよろしいのである。愉しみは配給したり、されたりするような性質なものではないのだ。人に強制したりされたりすべき性質のものでもない。
そして人間は働くことのほかに愉しむことも生きる目的の一ツと当然考えてよろしい筈なのだ。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四八巻第四号」
1951(昭和26)年3月1日発行
初出:「新潮 第四八巻第四号」
1951(昭和26)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
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