男女混浴の酒池肉林は当然のこととなった。ネロの奢侈はローマ市民のものとなり、ローマ帝国亡びるや、キリスト教徒は浴場という浴場を破壊全滅させた。キリスト教徒は中世紀に至るまで沐浴《もくよく》を罪悪とみて、僧侶は一生沐浴しない者もあり、許されて年に二回ぐらい沐浴できる者もあったという程の徹底的な沐浴制裁を行ったのであるが、これはローマ風呂の快楽が忌まれたためで、他に理由はなかったということである。
 秀吉や秀次も有馬や熱海の湯治を愛した記事はあるが、今日残っている秀吉の湯殿は日本の湯殿としては豪奢な建物であるが、ローマの浴室とは比ぶべくもない。日本の当時の建築では、大宮殿に常に満々と湯を満したり、蒸気を満したりする設備が不可能でもあったろう。玄宗と楊貴妃が温泉にひたって快楽を満喫したのも有名な話。日本は温泉の国で、湯泉場にドンチャン騒ぎは附き物であるが、ローマ風呂の豪奢の片鱗をとどめるほどの浴室もなく、大半は奥の細道の心境を旨とするかの如き質実剛健ぶりで、亡国の相に縁遠いのは大慶の至りである。銀座に東京温泉なるものが開店する由であるが、江戸時代の大衆浴場を鉄筋コンクリートにした程度のものらしく、一パイ飲み屋が社交喫茶だのキャバレーなどと現代風を呈している以上は、浴場にこの程度の現代風が現れるのは遅きに失したぐらい、酒と女と風呂は暴君にも庶民にも三位一体の快楽をなしていた。
 私は沐浴が好きである。水浴は海も谷川も滝にうたれるのも好きだ。温浴は四十度から四十三四度ぐらいまでのぬるいのに長くつかって、特に後頭部を湯につけ、後に冷水でよくもむのが好きである。眼を冷水で洗うのも好きだ。やりだすと好きなのだが、立つのがオックウだったり、着物をぬぐのがイヤだったりして、なかなか入れない。この状態になるのは鼻汁が多く流れはじめて注意力の持続ができないようになってからで、こうなると何をするのもオックウになる。そのくせ何かツマラヌことをやりだすと今度はそれにかかりきるという妙なことになってしまう。
 根は甚しく沐浴が好きな私であるが、外国へ旅行したことがないので、蒸気風呂や熱気風呂の経験がないのである。
 日本にも古くから蒸気風呂があったらしい。塩ブロ、石ブロなどのほかに、小屋がけして石をしきつめ、この石を焼いて水をかけて蒸気をだし、その上に簀《す》をしいて蒸気浴をする。これはロシヤ風呂と同じ方法だそうだが、平安朝の昔からあった。奈良朝以前にも仏教の渡来と共に浴室はあったし、それが湯浴か蒸気浴かは不明らしいが、地方の民家に蒸気浴があったことはたしかである。現在瀬戸内海の沿岸地方に石風呂の存在は多く、それは古い歴史をもつものらしいようである。又、京都郊外の八瀬《やせ》にはカマ風呂というものが明治まで在ったそうだ。そのいずれも石室の内部で生木を焚いて石を熱し、火が灰となった時を見て火消し装束の如きもので身をかためた若者が木履をはいて駈けこみ、急いで灰を掃きだして、海水でぬれたムシロをしく。そのムシロの湯気で石室内がモウモウとなった時に、人々はムシロの上へねて蒸気浴をするのだそうだ。この石ブロの多くは人家を遠く離れた無人の地にあり、五月から十月までというようなシーズンがあって、そのシーズンに近在から人が集り、近所のバラックに寝泊りして石ブロへ通うのだそうだが、よほど古い時代の風俗を感じるのは私の気のせいかしらん。奈良の般若坂に北山十八間という国宝建造物があり、癩者救済用の病院だった由、目下は戦災者の宿のない人たちがいつの間にやらこの千年前の癩病院へ何十世帯も住みついて動かなくなっているそうであるが、ここにも、病人のために造ったものらしい蒸風呂の跡を見ることができるそうである。
 田舎の湯治場の風俗は、又、石ブロとほぼ相似た風俗で、一家族で一部屋をかり、自炊して湯治する。又、農村ではモライブロという風俗があり、いわば一ツの隣組で、代り番に自宅で風呂をたいて共同で浴する。必ずしも経済のためではなく、石ブロや湯治場同様、フロをもって休養時の集会所、社交場とみる遺風の片鱗ではあるまいか。
 だいたい、どこの原始宗教でも、男女神交遊の伝説、オミキ、沐浴の三ツは附き物である。その食べ物や行事が神様のために捧げられるというのは、それが彼らの最大の愉しみであったからに相違ない。男女の道、酒、沐浴、この三ツは人間の最も古くからの愉しみだったに相違ない。
 だが、色情も酒も現代に於ては愉しみであると共に、むしろより多いほど悔恨につきまとわれているものである。古代に於てはそうではなく、人間はもっと大らかで、神経衰弱的なところがなかったのであろうか。否、否。そうではなかったであろう。人間の神経は酒が生れた時にはもう脆かったろうと私は思うのである。
 現在日本の湯治場のちょッとぬ
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