すよ。キュッ/\こすったあと牛乳で頭をひたしまして、耳の孔などもよく洗います。それで自然にツヤがでるのですね。油をぬって光らせているのだろうと仰有る方がありましたが、そういうことは致しません」
「フーム、よく、つとめている。さすがだ」
と川野が感嘆の声をもらした。それが嬉しかったのか、日野クンはポッと耳まであからんで、
「お目にかかるたび、励ましていただきまして、おかげさまでフツツカ者もちかごろでは人様にいくらかでも好もしい目で見ていただくことができるようになりました」
日野クンは元々如才のない人物だったが、大巻先生の患者のころはこんなに処女のような初々しさはなかったのである。生き神様はこうなるものかと大巻先生は童貞のダライラマを思いうかべたりしたほどだった。ちょッとチゴサン的でもあった。
大巻先生はあまりフンイキをたのしむことに興味がないから、単刀直入、
「あなたもエライ管長さんになって凡俗の近づきがたい存在になってしまったが、実はね、ボクもかねて現代医学というものにあきたりない気持があって、宗教の暗示力、霊力というようなものに心をひかれているのです。川野先生のお話を伺うに、先生は教祖の掌の放熱をうけると大そうスーッとして軽くなると仰有る。また、教祖はいろいろ治病の実績があるようですね。ボクは別に持病というものがないので実験台にならんかも知れんが、川野先生の仰有る掌の放熱というのをボクにも一ツためしていただけまいか。宗教の力を疑るようで心苦しいが、自分も医者の立場として、いっぺん経験してみたいのです」
「承知しました。それではさっそく教祖に伺って参りますから」
日野クンはいとも気軽にひきうけて、宗教的な重々しい素振りなどはミジンも見せずに奥の部屋へ立った。長い時間は待たせなかった。日野クンは戻ってきて、
「どうぞ、こちらへ」
教祖の客間らしいところへ通された。あたり前の座敷である。
教祖は二人を迎えて一礼。特に大巻先生には、
「いつぞやは大そう失礼いたしました」
三ツ指ついて軽く頭を下げる。例の如き無表情。口をきいているだけ、むしろ今までになく尋常な様子にさえ見えるのである。
ハテナ、分裂病は治ったのかな、と大巻先生は考えたほどだ。目ツキにも特に狂的なけわしさは見られなかった。
「上衣をお脱ぎになった方が」
と、日野クンはアンマの受附けのように軽くすすめる。
「では」
と大巻先生が上衣をぬぐのを待って、
「どうぞ、こちらへ」
教祖が腕をとって部屋の上手へつれて行って坐らせた。
「この辺がお悪いのですね」
教祖は彼の正面に坐り、彼の胃のあたりに軽く手を当てて、ジッと顔をのぞきこむ。
すでに教祖の表情は変っていた。武芸者のような無表情。あるいはキツネのお面をかぶったようだ。大巻先生はキヌギヌの彼女の泣きぬれた顔を思いだした。これと同じような突きつめた顔をして、やがてヨヨと泣き伏したのである。性慾を絶した可憐な気品がこもっていた。
胃に当てた彼女の手が、重い石のように、まっすぐ、力強く、くいこんでくる。すこしもふるえていない。そして大巻博士が何よりも意外だったことは、彼女の密接した身体から、彼女の呼吸も、脈搏も、女の体臭すらも感じられなかったことである。
彼女が手を放す。すべてが、にわかに軽く、明るくなった。そして大巻先生はふと気がついた。
「そうだ。オレは熱のことを忘れていたぞ。イヤ。全てのことを忘れていたような気がするな。しかし、なんて軽くなったのだろう」
にわかに現実へ連れ戻されたような気がしたのである。彼は思わず感嘆の叫び声をあげた。
「ヤ。なんて、すばらしいのだろう。まるでにわかに身体が半分の余も軽くなったような気がするぞ」
「そうだろう。君のその顔を見れば分るよ」
と川野がうれしそうに和した。
教祖は武芸者が試合を終えたあとのように、立膝をして、タタミに片手をついて身を支え、目を軽く閉じて、まるで失心しているような様子であった。全霊をあげたあとという感じであった。そこにも性慾を絶したものを大巻博士は見たのである。
「これが宗教だろうか。これが宗教の魅力だろうか」
彼はそう考えて突き当ってしまったのである。イエスともノーとも答えられない。
神サマも勝てない男
二人が本部の表玄関の前までくると、安福軒が待ちかまえていた。彼はニヤリ/\笑っているだけだ。首尾はお訊きしなくとも分っています、という様子だ。
「エイヤッ。エイヤッ。エイヤッ」
という剣術の稽古のような激しい気合が道場の中から起っている。
「ちょッと来てごらんなさい」
安福軒は二人を道場の入口までみちびいた。中には男女がギッシリ坐っている。何か唱えているかと思うと、突如として、片手をアッパーカットのように鋭く一突き二突き三突きして、
「エイヤッ。エイヤッ。エイヤッ」
と絶叫するのである。
「これはなんの行事ですね」
「なんでもいいですよ、こんなことは。逆立ちでも何でもするがいいさ。そんなことよりも、ほら、すぐそこに知った顔が見えませんか」
こう云われて、二人がその場所を見ると、そこに坐って無念無想の如くに呪文を唱え腕をふりまわしているのは川野水太郎の奥さんだ。それを見ると川野はちょッと暗い顔をしたが、大急ぎで笑い顔にきりかえて、
「変なことが、はやるよ」
「え、オイ、キミ」
大巻先生が慌てたように安福軒の袖をひいた。
「そこにいる婆さんは、例の旅館にいた婆さんじゃないか」
「そうですよ。あのヤリテ婆アのような奴ですよ。そして、その隣にいるのが、ボクの本当の女房ですよ」
安福軒は落着き払って、そう答えた。おとなしそうな年増が七ツぐらいの子供をつれて坐ってる。子供にも合掌させ、エイヤッ、エイヤッをやらせているのである。
「あのコブつきが君の奥さんかい?」
「そうですよ。なんしろわが家はこの宗教で暮しを立てていますから、女は正直なものですよ。バカなんですな。ヒマがありすぎるんですよ。ボクを信仰してさえいりゃ間に合うのにね」
「帰ろう。帰ろう」
川野が二人をうながした。
大巻博士は川野と安福軒のフシギな対照をハッキリ認めないわけにいかなかった。川野は落着きがないのに、安福軒は糞落着きに落着き払っている。
安福軒が二人に話しかけないのは、宗教について談ずることに興味をもたないせいだ、ということがハッキリ読みとれるようであった。
二人の俗物どもがまだ宗教のフンイキからぬけきれずに、そしてまだほかのことが落着いて考えられないような状態の中にいる。その最中は二人に話しかけてもムダだと断定しきっている落着きである。
「なんてフテブテしい宗教への不信だろうか。この男は全然宗教に心をうごかされたことがない人間だ」
大巻博士はこうシミジミと痛感した。そして彼の自信マンマンたるフテブテしい目は、宗教を信じたことのない人間の目ではないかと考えた。
「オレにもその目がなつかしくないことはない。しかし、そこまでは、ついて行く気がしないな。要するに、二号にインバイをやらせる奴の目なんだろう」
そして彼は安福軒と一しょにいるのがイマイマしくてたまらなくなった。そこで曲り角へ来たのを幸い、
「ボクは川野君とどこかで一パイのむから、ここで君と別れましょう」
しかし、安福軒はきわめてライラクにそれに答えた。
「イエ、ボクもヒマですから、一しょにお供いたしましょう。お二方を御案内したカドによって、ボクの本日の用はすんだのですよ。さて、どこへ御案内しましょうか」
あまりライラクな返答だから、大巻博士はおかげで恥をかかずにすんだような、恩をきせられたような感じであった。
安福軒は例の目で二人を遠慮なく見つめながら、
「ボクは生活のためですからあの宗教と離れるわけにいきませんが、あなた方がなにもあんな物に関心をもつことありませんよ。あんなもののどこが面白いんですか」
そう云う彼も、人にきらわれながら、どこが面白くて二人についてくるのかワケが分らない。
しかし大巻先生は、何かのハズミがありさえすれば今夜のうちにも阿二羅教の信者になりかねない自分の頼りなさに気がついた。そして、それに比べれば、面白くもないことを承知の上でこうしてノコノコついてくる安福軒がひどく逞しいような気がした。人生を面白がろうとしないのだ。面白くないことを百も承知で平気で生きている奴の自信に圧倒されたのである。
底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第二九巻第一一号」
1953(昭和28)年9月1日発行
初出:「キング 第二九巻第一一号」
1953(昭和28)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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