はそこへ大巻博士を案内して、
「ホレ、ごらんなさい。これが温泉ですよ。つまり、あなたの一室のために便所と浴室と台所と女中が附属しているようなものですよ。これに不足を云ったら罰が当りますぜ。どこにこんな至れり尽せりの旅館がありますか」
「これで温泉気分にひたれというのかい」
「今に分りますが、ここの内儀《おかみ》は一流の板前ですよ。その他、サービス満点……」
 自信マンマンたる眼の色であるから、大巻博士も宿を得た気のユルミか、なんとなくたのもしくなってきた。
 大巻博士は内科の開業医である。よくはやるお医者であるから、温泉へでかけるようなヒマがめったにない。たまたま名古屋方面に所用あっての帰途、予定よりも一日早く用がすんだから、伊豆の温泉に途中下車して、旧知の川野水太郎と久々に一パイ飲もうと思い立ったのが、こういう結果になってしまったのである。
 一風呂あびてユカタにくつろぐと、なんとなく温泉気分になったのは妙なもの。そこで安福軒を相手に一パイ飲むと、なるほど料理もマンザラではない。安福軒は自分は飲まずに、すすめ上手。大巻博士は酩酊して、
「どうだい。席を改めて芸者をよぼう」
「それは、いけません。今日は土曜日、二時間前の泣顔を忘れましたね。一通りお料理がすむと当店の女主人がサービスに現れましょうから、お待ちなさい。とても、とても、温泉芸者などの比ではありませんぜ」
「何者だね」
「それは、あなた。こんな商売で暮しを立てる必要があるんですから、未亡人ですよ。年は二十九。むかしは新橋で名を売った一流の美形ですよ」
「なるほど、それは大物だ」
「大物中の大物です。料理の腕はある、行儀作法、茶の湯に至るまで確かなものです。それで美形ときてますよ。拝顔の栄に浴するだけでも男ミョウリに尽きますな」
「ウーム」
 だんだんと安福軒がたのもしくなるばかり。そのうちに、老婆に代って女主人が現れた。なるほど、美しい。白痴美というのかも知れぬが、口数少く表情に乏しいから、神様の一族のような気品がある。
「ウーム。立居フルマイ、見事なものだね。武芸者のように隙がなく、しかも溢れる色気がある」
「お気に召しましたか。では、小唄なと所望あそばしては?」
「所望してよろしいか」
「それは、あなたはお客様です。所望する分には何を所望なさってもよい。イエス、ノーは彼女が選んで答えるでしょう。いずれに
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