本の古典、同時に漢文の古典をみんな現代語に訳す事業を始め、専門の学生以外は古語を習ふ必要なく、古典が知りたい時には、いつでも寝ころんで現代語で読むことができるやうにしなければならない。
そして女学生中学生に、日本文学史でも教へて、文学の内容に就て論じ、その作品が読みたければいつでも現代語で「源氏」でも「徒然草」でも読めるやうにしておけば、学生はつまらぬ古語の解釈などに悩まされず、文学を知り、思想を読み、日本の歴史を味ふことができる。
今の中学生たちは、古典といへば古語の解釈が全部で、文学を味つたり、思想をよんだり、風俗を見たりすることを知らない。大学生とても、さうである。
新カナヅカイとか漢字制限とか、その主意は、その根本の精神は、カナヅカイや文字を簡略にすることではなく、ムダな学習をはぶいて、学問の本質へ近づくこと、文字の解釈などに多く患はされず、文学や思想の、物の実質を味ひ知る、そこに在るのでなければならぬ。
教育のすべてが、それによつて一貫して構成されなければナンセンスであり、その枝葉の一端としての新カナヅカイや漢字制限も、便利か不便か、その直接の効果から考へられねばならず、又、一字を少くすることが全体として考へる時、時間の節約となるかどうか、その実質から割りだすべきもの、私は語の歴史性といふやうなことは、専門家だけのこと、一般には無意味なことだと考へる。
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以上、まことにザッパクにまくしたてたが、私の意見は、主旨として、新カナヅカイも漢字制限も大賛成であるといふこと、なぜならば、ムダな労力がなくなるからで、そして又、ムダな労力がなくなることは国語ばかりのことではなく学問全般に一貫して実施されなければならないことで、日本の古典、漢文の古典も一般の人々が現代語でねころんで味読しうるやうな様式、西欧の名著もあげて現代語に訳して、学生たちは言葉の解釈を習ふのでなく、物の実質を味得する要領で、その実質を学ぶことが学問だといふ、さういふ態度を確立しなければならない。
学問といふものは事物の操作を簡単にし、人生を豊富にするために在るべきものです。僕は学者ぢやないから、学問ある人々からさうしてもらひたいものだ、と乞ひねがつてゐる次第なのである。
底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「風刺文学 第一巻第五号」
1947(昭和22)年11月1日発行
初出:「風刺文学 第一巻第五号」
1947(昭和22)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
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