、信長は刺客の泊っている京都の宿屋へノコノコでかけて行って、汝ら、の分際でオレを殺せるつもりとはバカな奴らめ、今、とびかゝって刺しに来てみよ、と云って睨みつけた。刺客どもは顔色を失い、ふるえあがってしまったが、京童《きょうわらべ》はこれをきいて、大将のフルマイとは思われぬという者と、若大将はこれだけの血気がなくては、という者と、二派の批評があったそうだ。
 信長は京都、堺を見物していたが、雨降りの払暁、にわかに出立、昼夜兼行二十七里の山径《やまみち》をブッとばして帰城した。この理由も、家来の誰にも分らない。ひきずり廻され、アッと驚かされてばかりいる家来どもにも、ウチの大将は偉いのか、半キチガイの乱暴者にすぎないのか、信長が三十になっても、まだ確たる見当はつかないのだ。
 どうやら美濃を平げ、宿敵斎藤氏を岐阜から追っ払った。信長、ときに三十四。然し、まだ、後には信玄という大入道がいる、謙信という坊主もいる、北条もいる、いずれも斎藤などとはケタの違う名題の戦争名人である。近いところに六角、朝倉、浅井がいるし、三好一党、松永弾正という老蝮もとぐろをまいて威張っている、毛利もいる、却々《なかなか》もって生来のウヌボレ通りに、確たる自信が持ちうるものではない。
 そこへ朝廷から綸旨がきた。先ず、借金をひと廻り大きくしたゞけの至って雄大ならざる綸旨であったが、ともかく、信玄、謙信なみにほゞ近づいた天下何人かの大将の一人の公認は得たようなものだ。
 信長も始めて多少の自信を発見したが、然し、さしたる自信では有り得ない。朝廷とは何ものであるか。足利将軍家といえども朝廷によって征夷大将軍に任ぜられておるところの、しかして彼の父も朝廷によって、ようやく弾正に任ぜられたところの、日本の第一の宗家である。とはいえ、現実に於て朝廷は虚器であり、足利将軍は老蝮の松永弾正の一存によって生かしも殺しもされ、天下の政務は老蝮の掌中にある。
 綸旨といえば名はよいが、その真に意味するところは、たゞもう寒々と没落の名家の悲しさ、哀れさ、みじめさのみ漂う借金状ではないか。皇子の元服の費用を用立てゝくれよ、料地は人にとられて一文のアガリもないから取り返してくれよ、御所が破れて雨がもり寒風が吹きすさんでも修理ができないから、なんとかしてくれよ、信長を感奮勇躍せしめるよりも、哀れさに毒気をぬかれる方が先である。
 もとより、信長の慧眼は、虚器の疎ずべからざる、その利用価値を見ぬいてはいた。然し、綸旨の名による体《てい》のよい借用状、徴発令に、現実の大きな実力がないことは分明である。それによって信長は、ともかく天下への自信の発芽を認めることはできたが、まことの自信を持つことはできなかったのだ。
 それから、一年すぎた。足利最後の将軍義昭が彼にたよってきた。それと前後して、老蝮の松永弾正が、信書をよせて、信長が兵を率いて上洛するなら、自分も一肌ぬいで助力する、あなたこそ次代を担い、天下に号令すべき大将だと、うまいことを言ってきた。
 天下の執政たる悪逆無道の老蝮もたしかにヤキがまわってはいた。主人に、主人の主人に叛《そむ》かせ、その主人の子供を自分が殺して主家を乗とり、公方《くぼう》を殺し、目の上のコブを一つずつ取って、とうとう天下の執政にとぐろをまいて納ったが、このやり方では味方がない、味方が同時に敵でもある。公方を殺してからのこの数年は、もっぱら味方の三好三党と仲間われの戦争に追いつ追われつ、おかげで奈良の大仏殿に放火して焼いたり、堺へ逃げて、あやまったり、さすがの老蝮も天下の政治をうッちゃらかして、逃げたり、だましたり、夜討をかけたり、つまらぬことに頭から湯気のたつほど忙しい。
 然し、さすがに老蝮であった。彼は信長を見ぬいた。彼は次代を知り、世代の距りを知っていた。天下の執政などと実質的ならざる面目にこだわらず、次代の選手に依存する術《すべ》を心得ていたのだ。実力失せた先代の選手を押しのけ殺して自分の世代をつかみとった彼は、次代に依存する賢明さを、自らの血の歴史から学びとっていた。
 それにくらべれば、足利義昭の信長に対する依存の仕方は、確たる定見の欠けたものだ。生家の地位を看板に依存を身上とした義昭は、兄の将軍が松永弾正に殺されて以来、逃げのびて和田|惟政《これまさ》にたより、六角|義賢《よしかた》にたより、謙信に助力を乞い、武田|義統《よしむね》にたより、朝倉義景にたより、手当り次第にたよった。彼の一生は依存の一生で、誰彼の見境いなく、人物への信頼も信義もなかった。利用すれば、よかったのである。
 利用は、又、信長自身のお家の芸でもあった。然し、まことの悪党というものには、ともかく信義がある。信長は悪党にあらず、と言うなかれ。彼は悪党である。一身をはり、投げすてているではないか。賭場のアンチャンのニセ悪党とは違う。ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。
 老蝮の弾正も、信長も、悪党ぶりには変りはない。老蝮は、主家を乗とり、公方を殺したが、信長は殺す必要なく自立できただけのことで、信長の方が人を殺すにむしろ冷酷無慙であったろう。
 老蝮は、一生を傍若無人の我流で押し通したこと、信長と好一対、百二十五まで生きてみせると称し、延命の灸をすえ、手当をすれば何でも長命できるものだと、苦心サンタン松虫を三年飼いならしてみせた。
 老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていた。二人の悪党の友情と、老蝮の信義がどんな風に妙テコリンなものであったか、追々明かとなるであろう。
 老蝮の信長依存の魂胆は、信長の自信に恐らく最大の安定を与えた。そして依存の真実、老蝮の信義の真実を信ずることによって、老蝮の依存を、信義を真実なものたらしめもしたのだ。かれを信ずることによって、信長は老蝮に勝ち征服したのである。
 老蝮は足利義昭の兄の将軍を殺し、その母も焼き殺した。次兄も殺され、義昭のみは逃げのびて危いイノチを助かったのだ。老蝮こそは義昭のフグタイテンの仇敵であった。義昭は都を追われ、天下の政務は老蝮の掌中にあった。
 義昭は誰彼の見境いなく人にすがって将軍家再興に奔走したが、将軍家再興の日は、憎むべき老蝮への復讐の日であったのだ。ついに信長の助力によって、義昭は京都を恢復し、老蝮の軍勢を蹴ちらした。彼は老蝮を八ツ裂きにすることを得たか。否、否。信長が老蝮をゆるしたのである。すでにその日を予想した老蝮は、自ら張本人となって信長を京都に手引きしていた。世に裏切りということがある。知らないうちに主を売り味方を売るのである。老蝮は味方を売った。然し、主を売ることはできなかった。なぜなら、彼自身が総大将であったからだ。総大将の裏切りなどゝいうことが有るべきものではない。裏切りにあらず、それを降参というのである。ところが、老蝮は、降参といえば降参、裏切りと云えば裏切り、なんとも得体の知れない形で始末をつけているのであるから、何事もこの老蝮の手にかゝると奇々怪々な形になってしまうのである。彼は上洛の信長軍に負けて逃げのびて降参したが、敗北して逃げる何ヶ月も以前から、とっくに信長に降参して、自らその上洛をすすめていたのであった。
 降参した老蝮は、さっそく信長を訪問して、京都の治安はこうされたらよろしかろう、などゝ色々献策した、が切支丹《キリシタン》の弾圧は必要大切でござるなどと云ってバテレンどもを怒らせた。
 こうして、義昭は老蝮を八ツ裂きにできなかったが、ともかく念願の将軍位につくことができた。そのとき、信長依存の交渉に立ち働いた義昭の二人の重臣がいた。一人は正直者の和田惟政であり、一人はインテリ兵法家明智十兵衛光秀であった。そして光秀は義昭の推挙によって信長の家来となった。
 こうして、信長という悪魔の天下は、蝮やら曲者やらのうごめきの上に、魔法のラムプの一夜の城の如くに忽然として現れてきたのであったが、そも、信長とは何者であるか、これこそは、当時にあっては、さらに大きな謎であった。

          ★

 信長とは何者であるか。家来にも分らない。彼を育てた忠義一徹の老臣は、餓鬼大将のタワケぶりに絶望して、自殺した。
 餓鬼大将はケンカだけは強かった。ケンカの稽古は大好きだ。そして、当時流行の短槍よりも、長槍の方が有利であると見ぬいて、自分の家来に三間半の長槍をもたせたほど、幼少にしてケンカの心得にレンタツしていた。四月から十月まで河に入りびたって水練は河童の域に達し、朝夕は馬の稽古、弓を市川大介に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位に、これが日課で、外に角力《すもう》と鷹狩は餓鬼大将の時から死に至るまでの大好物、天下統一の後もハダカになって小者と角力をとっていた男であった。
 ケンカ達者の餓鬼大将は、その要領で戦争して、まア、なんとなく、勝っていた。家来たちには、そうとしか思われなかった。
 信長は今川義元を破って、バカ大将、一躍して天下疑問の名将に出世したが、家来たちには、偶然の奇蹟、まぐれ当りという疑惑が、知らない他人たちよりも強く残って頭から放れなかった。
 今川義元は東海の重鎮、名だたる名将であり、天下統一の万人許した候補者であった。その家柄は足利につぐ名門だ。これにくらべれば、信長は、小大名の奉行の倅《せがれ》にすぎず、腕ッぷしにまかせて、主家をつぶし、同族を倒して自立した田舎のケンカ小僧にすぎないのだ。
 今川勢四万の大軍の攻撃をむかえる織田勢は三千そこそこ、出て戦えば一つぶしであるから、軍評定の重臣たち、満場一致、清洲籠城ときまったが、餓鬼大将は、たった一人、断々乎として反対した。そのとき信長は、勝負は時の運だよ、と言った。彼には、それが全部であり、そして、それだけで、よかったのだ。なぜなら、彼はなすべき用意はしつくしており、そしてイノチをかけていた。してみれば、彼にとっては、あとは運がすべてゞあった。人為のつくされたとき、あとの結果は運という一つの絶対に帰する筈だ。そこには悔いはないのである。百万人の幾人が、自若としてかゝる運を待ちうるであろうか。
 織田氏の所領にくいこんで、今川方の大高城があった。今川軍は織田の砦を諸方に蹴ちらしもみつぶしつゝ進んでいたが、やがて大高城にとりついて休養し、兵糧を入れて前進基地とすることが明かであった。信長は大高城の前方左右に丸根、鷲津の二つの砦を構え、佐久間盛重と織田|玄蕃《げんば》にまもらせて、今川勢の進軍を待っていた。
 今川勢は丸根、鷲津にせまってきた。その警報が櫛の歯をひくが如くに飛んでくるという夜、信長は軍評定は全然やらず、もっぱら世間話に夜ふかしをして、夜も更けた、もう帰れ、と家来たちに帰宅させた。家老たちは城を出ると顔を見合せ、運の末には智慧の鏡もくもるというが、バカ大将も今日が最後だと云って、てんでに信長を嘲弄しながら夜道を歩いて帰ったのである。
 あくる未明だ。今川勢が愈々鷲津丸根にとりついて攻撃をはじめたという注進がきた。
 そのとき信長は立ち上り、朗々とうたいながら敦盛《あつもり》の舞いをはじめた。
 人間五十年
 化転《けてん》のうちをくらぶれば
 夢幻《ゆめまぼろし》の如くなり
 一度生を得て
 滅せぬものゝあるべきか
 信長終生熱愛の謡であり舞であった。彼の人生観ぐらい明快なものはない。この謡の文句で足りた。イノチをかけていたからだ。
 謡が終えたが信長はまだ舞っていた。そして、舞いながら、ホラガイを吹け、具足をよこせ、そして舞いながら具足をつけ、立ちながら食事をとり、カブトをかぶり、なお舞いながらスルスルと出陣してしまったのである。
 家来たちはバカ大将に呆れ、帰宅して、ねむっている。ホラガイの音に目をさま
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