いるではないか。賭場のアンチャンのニセ悪党とは違う。ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。
老蝮の弾正も、信長も、悪党ぶりには変りはない。老蝮は、主家を乗とり、公方を殺したが、信長は殺す必要なく自立できただけのことで、信長の方が人を殺すにむしろ冷酷無慙であったろう。
老蝮は、一生を傍若無人の我流で押し通したこと、信長と好一対、百二十五まで生きてみせると称し、延命の灸をすえ、手当をすれば何でも長命できるものだと、苦心サンタン松虫を三年飼いならしてみせた。
老蝮は蝮なりに妙テコリンな信義があった。そして、信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮の信義を信じていた。二人の悪党の友情と、老蝮の信義がどんな風に妙テコリンなものであったか、追々明かとなるであろう。
老蝮の信長依存の魂胆は、信長の自信に恐らく最大の安定を与えた。そして依存の真実、老蝮の信義の真実を
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