とも得体の知れない形で始末をつけているのであるから、何事もこの老蝮の手にかゝると奇々怪々な形になってしまうのである。彼は上洛の信長軍に負けて逃げのびて降参したが、敗北して逃げる何ヶ月も以前から、とっくに信長に降参して、自らその上洛をすすめていたのであった。
降参した老蝮は、さっそく信長を訪問して、京都の治安はこうされたらよろしかろう、などゝ色々献策した、が切支丹《キリシタン》の弾圧は必要大切でござるなどと云ってバテレンどもを怒らせた。
こうして、義昭は老蝮を八ツ裂きにできなかったが、ともかく念願の将軍位につくことができた。そのとき、信長依存の交渉に立ち働いた義昭の二人の重臣がいた。一人は正直者の和田惟政であり、一人はインテリ兵法家明智十兵衛光秀であった。そして光秀は義昭の推挙によって信長の家来となった。
こうして、信長という悪魔の天下は、蝮やら曲者やらのうごめきの上に、魔法のラムプの一夜の城の如くに忽然として現れてきたのであったが、そも、信長とは何者であるか、これこそは、当時にあっては、さらに大きな謎であった。
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信長とは何者であるか。家来にも分らない。彼を育てた忠義一徹の老臣は、餓鬼大将のタワケぶりに絶望して、自殺した。
餓鬼大将はケンカだけは強かった。ケンカの稽古は大好きだ。そして、当時流行の短槍よりも、長槍の方が有利であると見ぬいて、自分の家来に三間半の長槍をもたせたほど、幼少にしてケンカの心得にレンタツしていた。四月から十月まで河に入りびたって水練は河童の域に達し、朝夕は馬の稽古、弓を市川大介に、鉄砲を橋本一巴に、兵法を平田三位に、これが日課で、外に角力《すもう》と鷹狩は餓鬼大将の時から死に至るまでの大好物、天下統一の後もハダカになって小者と角力をとっていた男であった。
ケンカ達者の餓鬼大将は、その要領で戦争して、まア、なんとなく、勝っていた。家来たちには、そうとしか思われなかった。
信長は今川義元を破って、バカ大将、一躍して天下疑問の名将に出世したが、家来たちには、偶然の奇蹟、まぐれ当りという疑惑が、知らない他人たちよりも強く残って頭から放れなかった。
今川義元は東海の重鎮、名だたる名将であり、天下統一の万人許した候補者であった。その家柄は足利につぐ名門だ。これにくらべれば、信長は、小大名の奉行の倅《せがれ》にすぎ
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