た。そして情慾とは無関係な何かを思ふ白々しい無表情があつた。
野村はその無表情の白々とした女の顔を変に心に絡みつくやうに考へふけるやうになつた。一言にして言へば、その顔が忘れかねた。その顔に対する愛着は、女の不具な感覚自体を愛することを意味してゐた。
★
戦争の終る五日前に野村は怪我をした。
原子爆弾の攻撃がはじまつたので、愈々死ぬ日もまじかになつたらしいな、と思つた。けれども生きたい希望は強かつた。そこで防空壕の修理を始めた。焼跡の土台石を貰つてきて防空壕の四周に壁をつくりたしてゐたのである。その石が五ツくづれて野村の足の上へぢり/\圧してきた。上の一つだけ手で抑へたが、下から崩れてきたので防ぐ法がない。怺《こら》へると足が折れると直覚したので、出来るだけ静かにぢり/\と後へ倒れた。足は素足であつた。石は膝の骨まで食ひこんでゐた。経験したことのない激痛の中に絶望しようとする心と意志とがあつた。塀の外を人の跫音《あしおと》がしたので救ひをもとめようとしたが、その人が何事かと訊きかへし、了解して駈けつけてくれるまでの時間には足が折れると思つた。彼は一つづゝ石をはねのけ始めた。石は一ツ十五貫あり、尻もちをついた姿勢ではねのけるには異常の力が必要だつた。全部の石をとり去ることができたとき、彼はめまひと喪失を感じかけたが、意志の力が足の骨折を助けたことに満足の気持を覚えた。それと同時に、歩行に不自由では愈々戦争にやられる時も近づいたやうだと思つた。そして、始めて女を呼んだ。そして、リヤカーにのせられて病院へ行つた。
終戦の日はまだ歩くことができなかつた。
生きて戦争を終り得ようとは! 傷の苦痛が生々しいので、その思ひは強かつた。けれども、愈々女とはお別れだな、この傷の治らぬうちに多分女はどこかへ行つてしまふだらう、と考へた。それはさして強烈な感情をともなはなかつた。
「戦争が終つたんだぜ」
「さういふ意味なの?」
女はラヂオがよくきゝとれなかつたらしい。
「あつけなく済んだね。俺も愈々やられる時が近づいたと本当に覚悟しかけてゐたのだつたよ。生きて戦争を終つた君の御感想はどうです」
「馬鹿々々しかつたわね」
女はしばらく捉へがたい表情をしてゐた。たぶん女も二人の別離について直感するところがあつたらうと野村は思つた。
「ほんとに戦争が終つたの?」
「ほんとうさ」
「さうかしら」
女は立つて隣家へきゝにでかけた。一時間ほども隣組のあちこちを喋り廻つて戻つてきて、
「温泉へ行きませうよ」
「歩けなくちや、仕様もない」
「日本はどうなるのでせう」
「そんなこと、俺に分るものかね」
「どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが」
「欲しいね」
女は紅茶をつくつて持つてきた。野村が起きようとすると、
「飲ましてあげるから、ねてゐてちやうだい。ハイ、めしあがれ」
「いやだよ、そんな。子供みたいに匙に半分づゝシャぶつてゐられるものか」
「かうして飲んで下さらなければ、あげないから。ほんとに、捨てちやうから」
「つまらぬことを思ひつくものぢやないか」
「病気で、おまけに戦争に負けたから、うんと可愛がつてあげるのよ。可愛がられて、おいや」
女は口にふくんで、野村の口にうつした。
「今度はあなたが私に飲ましてちやうだいよ。ねえ、起きて、ほら」
「いやだよ。寝たり起きたり」
「でもよ、おねがひだから、ほら、あなたの口からよ」
女はねて、うつとり口をあけてゐる。女は小量の紅茶をいたはるやうに飲んで口のまはりを甜《な》めた。まぶしさうに笑つてゐる。
「ねえ、あなた。この紅茶に青酸加里がはいつてゐたら、私達、もう死んだわね」
「いやなことを言はないでくれ」
「大丈夫よ。入れないから。私ね、死ぬときの真似がしてみたかつたのよ」
「東条大将は死ぬだらうが、君までが死ぬ必要もなからうよ」
「あなた、空襲の火を消した夜のこと、覚えてゐる?」
「うん」
「私、ほんとは、いつしよに焼かれて死にたいと思つてゐたのよ。でも、無我夢中で火を消しちやつたのよ。まゝならないものね。死にたくない人が何万人も死んでゐるのに。私、生きてゐて、何の希望もないわ。眠る時には、目が覚めないでくれゝばいゝのに、と思ふのよ」
野村には女の心がはかりかねた。語られてゐる言葉に真実がこもつてゐるのか皆目見当がつかなかつた。彼はたゞ、なぜだか、女との激しい遊びのあとの、女の白々と無表情な顔を思ひだしてゐた。あのとき、何を考へてゐるのだか、きかずにゐられなくなつてしまつた。
「君はそのとき、白々とした無表情の顔をするのだよ。僕を憎む色が目を掠める時もある。君は僕を憎んでゐるに相違ないと思ひはするが、そのほかに、まるで僕には異体《えたい》の分らぬ何かを考へてゐるのぢやないかと思つてゐたのだがね、あのとき何を考へてゐるのか、教へて貰ふわけに行かないかね」
女はわけが分らないといふ顔をした。そのあとでは、てれたやうに、かすかに笑つた。
「そんなこと、きくものぢやないわ。女は深刻なことなど考へてをりませんから」
そして、まじめな顔になつて、
「あなたは私を可愛がつて下さつたわね」
「君は可愛がられたと思ふのかい?」
「えゝ、とてもよ」
女の返事は素直であつた。
女は例の一時的な感動に亢奮してゐるだけなのだと野村は思つた。そして感動の底をわれば、いづれは別れる運命、別れずにゐられぬ女自身の本性を嗅ぎ当ててゐることのあらはれではないかと疑つた。
「僕は可愛がつたことなぞないよ。いはゞ、たゞ、色餓鬼だね。たゞあさましい姿だよ。君を侮辱し、むさぼつたゞけぢやないか。君にそれが分らぬ筈はないぢやないか」
彼は吐きだすやうに言つた。
「でも、人間は、それだけのものよ。それだけで、いゝのよ」
女の目が白く鈍つたやうに感じた。驚くべき真実を女が語つたのだと野村は思つた。この言葉だけは、女の偽らぬ心の一部だと悟つたのだ。遊びがすべて。それがこの人の全身的な思想なのだ。そのくせ、この人の肉体は遊びの感覚に不具だつた。
この思想にはついて行けないと野村は思つた。高められた何かが欲しい。けれども所詮夫婦関係はこれだけのものになるのぢやないかといふ気にもなる。案外良い女房なのかも知れないと野村は思つた。
「いつまでも、このまゝでゐたいね」
「本当にさう思ふの」
「君はどう思つてゐるの?」
「私は死んだ方がいゝのよ」
と、女はあたりまへのことのやうに言つた。まんざら嘘でもないやうな響きもこもつてゐるやうだつた。淫奔な自分の性根を憎むせゐだらうとしか思はれなかつた。死ねるものか。たゞ気休めのオモチャなのだ。そして野村は言葉とはあべこべに、女とは別れた方がよいのだと思ひめぐらしてゐた。
「あなたは遊びを汚いと思つてゐるのよ。だから私を汚がつたり、憎んでゐるのよ。勿論あなた自身も自分は汚いと思つてゐるわ。けれども、あなたはそこから脱けだしたい、もつと、綺麗に、高くなりたいと思つてゐるのよ」
言葉と共に女の眼には憎しみがこもつてきた。顔はけはしく険悪になつた。
「あなたは卑怯よ。御自分が汚くてゐて、高くなりたいの、脱けだしたいの、それは卑怯よ。なぜ、汚くないと考へるやうにしないのよ。そして私を汚くない綺麗な女にしてくれようとしないのよ。私は親に女郎に売られて男のオモチャになつてきたわ。私はそんな女ですから、遊びは好きです。汚いなどと思はないのよ。私はよくない女です。けれども、良くなりたいと願つてゐるわ。なぜ、あなたが私を良くしようとしてくれないのよ。あなたは私を良い女にしようとせずに、どうして一人だけ脱けだしたいと思ふのよ。あなたは私を汚いものときめてゐます。私の過去を軽蔑してゐるのです」
「君の過去を軽蔑してはゐないよ。僕はたゞ思ふのだ。君と僕との結びつきの始まりが軽卒で、良くなかつたのだとね。僕たちは夫婦にならうとしてゐなかつた。それが二人の心の型をきめてゐるのではないか」
女は大きな開かれた目で野村を睨んでゐた。それから、ふりむいて、ねころんで、蒲団をかぶつて泣きだした。
野村はなほも意地わるく考へてゐた。
女はなぜ怒りだしたのだらう。それも要するに、自分の淫奔な血を嗅ぎ当てて、むしろその毒血自体がのたうつてゐる足掻《あが》きであり、見様によつては狡猾なカラクリであり、女はそれを意識してゐないであらうが、まるで自分が淫奔なのは野村が高めてくれないせゐだと言ふやうな仕掛けにもなつてゐる。
なんと云つても野村には女の過去の淫奔無類な生活ぶりが頭の芯にからみついてゐるのだ。それを女にあからさまには言へないが、それはたしかに毒の血の自然がさせる振舞で、理知などの抑へる手段となり得ぬものだと見てゐるのだ。
戦争は終つた。
戦争の間だけの愛情だといふことは、二人の頭にこびりついてゐた。敵の上陸する日まで、それは二人の毎日の合言葉であり、言葉などの及びもつかぬ愛情自体の意志ですらあつた。その戦争が終つたのだ。
女はほんとに一緒に暮したい気持があるのかな、と、野村は考へてみても信じる気持がなかつた。
淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐたが、その空襲もなくなるし、夜の明るい時間も復活し、色々の遊びも復活する。女の血が自然の淫奔に狂ひだすのは僅かな時間の問題だ。止めようとして、止まるものか。高めようとして、高まるものか。
終戦になつてみると、覚悟はきまつたやうだ。なに、女だつて、さうなのだ。野村に食つてかゝつた女は、二人の愛情の永続を希むやうな言葉のくせに、見様によつては野村よりも積極的に、すでに二人の破綻のための工作の一歩をきりだしたやうなものだ、と野村は思つた。
女はいつでも良い子になりたがるのだ、自分の美名を用意したがるものなのだ、と、急に憎さまでわいてきた。
女は一泊の旅行にでも来たやうな身軽さでやつて来たのに、出る時はさうも行かないものなのか。なに、しばらく淫蕩を忘れて、ほかに男のめあてがないから今だけはこんな風だが、今にこつちが辟易するやうになるのは分りきつてゐるのだ、と野村はだん/\悪い方へと考へる。女のわがまゝを見ぬふりをして一緒に暮すだけの茶気は持ちきれないと思つた。
「もう、飛行機がとばないのね」
女は泣きやんで、ねそべつて、頬杖をついてゐた。
「もう空襲がないのだぜ。サイレンもならないのさ。有り得ないことのやうだね」
女はしばらくして、
「もう、戦争の話はよしませうよ」
苛々《いらいら》したものが浮んでゐた。女はぐらりと振向いて、仰向けにねころんで、
「どうにでも、なるがいゝや」
目をとぢた。食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体であつた。
戦争は終つたのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるやうに考へつゞけた。
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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