。
荒巻の場合はこれに反して、すでに世評のある人間であり、彼が勉強して、ほかの学業を学んでみても、彼の野球に於けるが如く、他の分野に於てもぬきんでるとは思われない。内村先生の如く一芸に秀でた専門家には、専門ということの尊さが分り、専門家に貴賤貧富のない理がわかるのだ。精神病医として大成するのも、野球人として大成するのも、その修業の激しさに変りはなく、学びの道に変りはない。
時事新報の将棋欄の解説者が、木村名人を評して、彼は何でも出来る人物だから、参議院議員となったらよかろう、と云っていたが、まことにバカげたことで、将棋家は将棋を一生の業とすべく、軍人が政治に口をだしたりすると国が亡びる。政治は本来の政治専門家がやるべきこと、将棋家に政治をやられては、こまるのである。政治は誰でもやれる。良識ある者は誰でもやれる。そういう風に政治を見くびっているから、日本の政治家はダメなのである。政治こそ、最も専門の知識を要するもので、単に人物ができているなどゝいう軽率な基盤で政治がやれるものではない。政治はあくまで政策が主で、そこには専門的な知識がなければならず、古今東西の歴史にてらして、未来を測定する確実な計出を必要とする。最も専門を要する職業なのである。
しかし一般には、こういう専門家の特性は考慮されてはおらず、したがって、専門家というものが、どういうものか知られていない。しかし、自分がまことに一芸に専門家であるなら、あらゆる専門家に貴賤上下の別がないことが分るもので、内村博士が荒巻に与えた訓戒は当然すぎるものであるが、日本の常識としては、これは尚、異端に属するものであるかも知れない。
内村博士のような学壇の壇の深くまつりあげられた超俗の学者が、嬉々として好きな野球随筆に打ちこんでいるのもアプレゲールの新風俗として慶賀すべきところであろう。
これに好一対をなすのが、宇野六段の阪神入りで、往年の学生横綱浅岡信夫が参議院議員になるよりも、宇野六段がバットをふり廻してくれる方が、私にはほゝえましく思われる。その方が筋が通っているからだ。
いったい日本のプロ野球では妙なことを言っている。六大学や実業団からの新人をすぐプロの本選手に仕立てゝグランドに出すのはプロの見識にかゝわるから、入団六ヶ月はグランドへ出すな、などゝ云っている。バカなことを言うものだ。うまけりゃ出すのが当り前だ。十六歳の中学生をいきなりプロの主戦投手にしたって構わない。実力があれば当然なのである。
戦争中の軍人は、艦長一人育てるには二十年かゝる、などと云っていたが、ドングリだから必ず二十年かゝる。天才は二三年でやれる。
野球もそうで、アメリカの大リーグでも、ボールを手にして一年しかたゝないのに、本選手になった天才もあり、ボッブ・フェラーは十八の年にプロ入りしてイキナリ三振十いくつ取っている。天才はそういうものである。
宇野六段は一向にウダツが上らないが、一般にスポーツの神経は似たようなもので、一芸に秀でたスポーツマンは他のスポーツにも応用のきゝ易いものであるから、ルーキーを探すに、現在の野球選手をねらわず、他のスポーツの選手を狙うという手があると思う。土地によっては父兄が野球を好まぬようなところもあるから、あたら天才児が柔道三段ぐらいになっていたりするものである。
新人というのは、職業人としての新人として意味があることで、職業人以外は余技にすぎず、朝日新聞が文化賞へ、アマチュア・スポーツを加えているのは滑稽千万の話である。
職業というものは尊いものだ。なぜなら、そこにその人の一生が賭けられ、生活が賭けられているからだ。金銭もかけられている。だから尊いので、金銭のかゝらないものは尊くない。
生活が賭けられ、一生が賭けられるから、職業に全人格が投入せられ、職業上に精神の安定をもとめ、ショウマンとして洗錬されたマナーも生れてくる。
アマチュア・スポーツが職業スポーツなみに騒がれると、その結果として現れるものは妖怪的な実相で、古橋や橋爪が学生的に銀座の店で物を売るよりは、職業人としてそうする方がどれだけ割りきれて美しいか分らない。美というものは割りきれていなければならないが、アマチュア・スポーツの英雄というものは、まことに妖怪的なものである。
要はアマチュア・スポーツの在り方の問題で、日本に於ては、スポーツは各人がこれを行って楽しむものではなく、見物して楽しむものであるところに不健康さの元があるように思われる。
応援団などゝいうものも、原始的に好戦的なまことにダラシなく野蛮なものである。これもつまりは、自らスポーツを楽しまずに、人のプレーを楽しむ不具的な習性から出ていることだろう。
朝日新聞の文化賞では、アマチュア・スポーツに授賞せず、プロ・スポーツに授賞するのが至当だが、スポーツの授賞の標準が世界新記録ということなら、これ又、滑稽千万な標準で、記録に表現できないスポーツはどういうことになるのだろう。レスリングやボクシングはどうなのか。チェスのようなゲームはどうなのか。スポーツだけで、ほかのゲームは違うというなら、これも滑稽。チェスはとにかく、囲碁や将棋や相撲は? これらはもしも世界的に名人戦をひらけば、碁に於ける呉清源はとにかく、たいがい日本人が選手権をとるだろう。これはスポーツの新記録ほど価値がないのかな。
水泳フリー千五百の一八分一九秒はまだどんどん破られるだろう。陸上百|米《メートル》の十秒三が二か一ぐらいになると、ほゞ人間の限界に達して破ることが至難になろうが、長い距離は陸上水泳に限らず、限界は遠く先にあって、まだ当分はヤマが見えない。
文化賞の授賞などゝいうことには、ひろく深い識見が必要で、ジャーナリズムの新人は必ずしも新人ではない。
私の経てきた半生のうちで、現代は、ともかく最も素質ある新人の揃っている時代のようであり、その新風もかなり劃然と一つの新時代到来を感じさせるものがあるようである。新人に良きものなしなどゝ云うのは頭の悪いジャーナリズムとグチッぽい老人どもの云うことである。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二七巻第一一号」
1949(昭和24)年11月1日発行
初出:「文藝春秋 第二七巻第一一号」
1949(昭和24)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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