芸能界に於ては、どこでも見られるものである。それがスッパリなくなったのは将棋界ぐらいのもので、ハッキリ勝負がつくのだから、それが当然にきまっていて、囲碁界では、それをやらない。まして、勝負のつけようのない他の芸能界に於ては、マカ不思議な批評の仕方や、迷信的評価規準が横行するのは仕方がないかも知れない。
 五代目はうまかった。円朝はどうだ、小さんがどうだ、今の奴はなっていない、と云う見識のない老人はみんなこう云いたがるもので、五代目や円朝、小さんの生きていたころの老人は、さらに一昔前をなつかしがって、その現代を軽蔑したに極っている。
 老人というものは、昔の時代に生きていて、現代には生きていないものであるから、そう云うのが当然で、つまり現代から捨てられ見放されている残骸にすぎない。
 安藤鶴夫氏は趣味家で、失われたものゝ良さを現代に伝えてくれる有難い人であるが、わりに老人めいたグチがなく、識見の底が広いようでいて、やっぱり濁りがある。現代に生きていないのである。
 法隆寺は今日では最も幽玄な芸術的遺物であるが、その造られた当初に於ては、俗衆の目を見はらせてアッと感嘆せしめるために、人力の限りをつくして、当時最大の豪奢を狙い、華美をつくしたもので、日光の東照宮の造営精神と異るところはなく、雅叙園の建築精神と異るところもない。
 落語とても、本来はそうで、八ッつぁん熊さんが粋がっているのも、当時の新流行で、今日の青年がジャズに興ずる如く、当時の青年の生活がそこに実存していたにすぎないのである。芸術本来の姿は常にそのようなものである。生活の中から生れてくるのである。それが時代的に生長せず、一つの型として、取り残されたところに、歪みと不健康さがあるものだ。
 今日の歌笑が落語界で人気者なのは当然だ。現代人の生活の中に生きているからだ。江戸時代に於ける落語はそうであった。あらゆる芸術がそうであった。その時代に生きていたのである。
 一昔前は、金語楼が落語界の新人であったが、彼の泥臭さに比べれば、歌笑は洗錬されてもいるし、より時代感覚に密着している。サトウ・ハチローと歌笑の座談会で、ハチロー氏が海中でクソに追っかけられる話をしている。海中で脱糞したところが、クビの横へポッカリ浮いてきた。泳いでも追っかけてくる。もぐって首を出しても、はなれない。この話に、歌笑の曰く、それは先生海だ
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