だ。十六歳の中学生をいきなりプロの主戦投手にしたって構わない。実力があれば当然なのである。
 戦争中の軍人は、艦長一人育てるには二十年かゝる、などと云っていたが、ドングリだから必ず二十年かゝる。天才は二三年でやれる。
 野球もそうで、アメリカの大リーグでも、ボールを手にして一年しかたゝないのに、本選手になった天才もあり、ボッブ・フェラーは十八の年にプロ入りしてイキナリ三振十いくつ取っている。天才はそういうものである。
 宇野六段は一向にウダツが上らないが、一般にスポーツの神経は似たようなもので、一芸に秀でたスポーツマンは他のスポーツにも応用のきゝ易いものであるから、ルーキーを探すに、現在の野球選手をねらわず、他のスポーツの選手を狙うという手があると思う。土地によっては父兄が野球を好まぬようなところもあるから、あたら天才児が柔道三段ぐらいになっていたりするものである。
 新人というのは、職業人としての新人として意味があることで、職業人以外は余技にすぎず、朝日新聞が文化賞へ、アマチュア・スポーツを加えているのは滑稽千万の話である。
 職業というものは尊いものだ。なぜなら、そこにその人の一生が賭けられ、生活が賭けられているからだ。金銭もかけられている。だから尊いので、金銭のかゝらないものは尊くない。
 生活が賭けられ、一生が賭けられるから、職業に全人格が投入せられ、職業上に精神の安定をもとめ、ショウマンとして洗錬されたマナーも生れてくる。
 アマチュア・スポーツが職業スポーツなみに騒がれると、その結果として現れるものは妖怪的な実相で、古橋や橋爪が学生的に銀座の店で物を売るよりは、職業人としてそうする方がどれだけ割りきれて美しいか分らない。美というものは割りきれていなければならないが、アマチュア・スポーツの英雄というものは、まことに妖怪的なものである。
 要はアマチュア・スポーツの在り方の問題で、日本に於ては、スポーツは各人がこれを行って楽しむものではなく、見物して楽しむものであるところに不健康さの元があるように思われる。
 応援団などゝいうものも、原始的に好戦的なまことにダラシなく野蛮なものである。これもつまりは、自らスポーツを楽しまずに、人のプレーを楽しむ不具的な習性から出ていることだろう。
 朝日新聞の文化賞では、アマチュア・スポーツに授賞せず、プロ・スポーツに授賞す
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