が出来た。翌る日も、心待ちにしてゐたが、女は戻つて来なかつた。
さういふ事があつてのち、間もなく、此の家の主婦は縊死を遂げ、その倅は、瘋癲院《ふうてんいん》へ送られてしまつた。私は、そして、坂の上の見晴らしのいい一角へ建てられたあの病院へ、暫時のつもりで入院することにした。
私は、この私へ襲ひかかつてきた尨大な空虚さを、どうすることも出来はしない。私が何事も思ひ知らずに耽つてゐる静かな物思ひの日に、ふとして、我知らず嵌り込んで遣り切れない此の真つ暗な、底の知れない深い崖は、どうすることも出来ないものだ。一種特別の苛立たしい憤りと、嘆きと、遣る瀬なさとで、私は、狂ほしい気持になるばかりである。
それでも私は、又会ふ日があるかも知れないといふ希望によつて、甘い安心を、ひととき心に落すことが出来るのである。その安心に唯一の救ひを見出すよりほかに詮方ない私は、その時、いそがわしく手繰り出す古い写真のやうにして、甘い幻を描き出すことによつて、何事をも忘れ去らうとするのである。
私は、病院の前にゐるのであつた。その径は、坂が降らうとする高台の端れにあつて、一方は下に展らける谷底の街へ、一方は、塀のみ長く続いてゐる木立の深い一廓へ、静かに流れてゐるのであつた。私はその径を、女と二人沈黙を守つて、静かに歩いて来るのであつた。病院の前で私達は別れて、私は、病院の中へ這入つてしまふのであつた。すると私は、真つ白な診察室へ首を突き出す頃までに、次第に色々のことがハッキリ分つてきたやうな思ひがして、突瑳に著るしく逆上してしまふと、何んだか自分の上体を支へきれないやうな、蹌踉とした足取りを慌しく踏みしめて、私は全く息を切らし乍ら――坂道の途中までに、私は、女に追ひ縋ることが出来るのであつた。
「一緒に連れて行つてお呉れ。遠い処へ行つてしまほふ……」
すると私の追跡を早くから意識してゐて、どうしても振り向くだけの勇気がなしに、殆んど息の止まる思ひで歩いてゐた女は、その時急に、私の胸へ、倒れるやうに転がり落ちてくるのであつた。私達は重なり合つて木暗い坂道を転がりながら――そして、私自身の幻の中でも、そして、幻を見る私自身の感覚までが、私達は重なり乍ら、まるで空気となつたやうに、其処に見えなくなるのであつた。私は知つてゐるが、道幅の狭い、木立の深い此の坂道で、私達が重なり乍ら激しく転落する時には、鬱蒼とした繁みを越えて、点描された星かのやうにポツポツと眺め取られる大空が、泌み渡るやうに蒼く蒼くて、キラキラとうち耀いてゐたのであつた。
さういふ幻を描くことによつて、然し決して愉快でない私は――なぜなら、忽ち私は羞ぢらう気持を感じてしまひ、忽ち自分が厭になつてしまふので、ややともすれば、苦い怒りの現実へ踏み戻らうとするものだから、
私は、突瑳に幻を変えて――
私は、一瞬にして、懶うげな空気の中へ、透明な波紋となつて溶けてしまふと、この坂道に鳴き頻るジンジンとした蝉の音となり、そして、この真つ白な病室へ――私は、もんもんと呟き乍ら木魂して来るのであつた。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一〇年第二号」
1932(昭和7)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一〇年第二号」
1932(昭和7)年2月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
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