だけで、この程度の容疑者は他にもあり、これを真犯人としているわけではない、と云っているのに、妙な感じをうけた。むしろ、腹立たしさを感じた。では、なぜ、容疑者の指名タイホを公表したのであるか。
この公表もひどかったが、ジャーナリズムの無定見、軽薄さは、さらにヒドイものだと私は思った。
生き残った人々の首実検で、犯人らしくないとなると、サッと変って、忽ち、容疑薄らぐ、となり、人権問題とくる。
首実検ひとつで、容疑薄らぐ、と断定するジャーナリズムの反文化的性格、無教養は甚しい。
帝銀事件の場合の如き、首実検など、一番当にならないものだ。首実検にも色々とあり、親が子の首実検する、という事になれば、これは揺ぎのないものだ。けれども、帝銀の場合の如き、たかだか十分ぐらい面接しただけで、しかも、相手を信用し、決して殺人鬼として、特別の注意を払って見ていたわけではないのである。
私なども、文士という商売上、人間観察はすでに身についた性癖であるが、それでも人の顔は却々《なかなか》覚えられぬ。私は先日、税務署の役人お二方に二時間にわたって話を交した。税務署の役人と云えば、これはもう、殺人鬼の次ぐ
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