もたっているのに、アリバイなんかゞ、何の役に立つものか。アリバイというのは、事件後、せいぜい一週間ぐらいが生命で、半年前に何をしたか、忘れているに極っている。
容疑薄れると見るや、ガラリと一変して、人権を論じ、当局をせめるジャーナリズムの正義感、これ又、滑稽そのものである。
人食い事件を創作したのも、新聞ではないか。水戸の容疑者を騒ぎたてたのも、新聞ではないか。太宰情死を社会問題として騒ぎたてたのも、新聞ではないか。一方に自分で騒ぎたてながら、同じ新聞の論説めいた欄で、文士の情死など騒ぎたてる世相は苦々しいなどと、自分でやっておきながら、責任を人に押しつけているのである。どこに良心があるのであるか。新聞以外の他のいかなる職業に於ても、一方に右を指し、一方に左をさして、恥なきことは許されぬ。新聞だけが、それを行って、恬《てん》として、恥じるところがないのである。
言論の自由と称し、報道の責務と称し、その美名や権力を濫用するもの、新聞の如きものはない。新聞の犯人製造は日常のことではないか。
容疑者H画伯を衆人にさらす、人権ジュウリンではないか。然り、たしかに、人権ジュウリンである。たしかに、よろしくない。隠したいハジをあばくのが良くないことであるなら、太宰の死体だって、撮影しようとしないのが本当ではないか。彼の破りすてた遺書などを、発表しないのが本当ではないか。第一、H画伯の顔を衆人にさらすのがイケないなら、その写真を新聞にのせなければ良いではないか。
新聞は報道だけでよろしいのだ。だから、H画伯の写真はのせてもよろしいのです。慎しむべきは、軽薄なる正義感である。正義というものは、深く、正確な合理を重ねて論ぜらるべきもので、その日その日のネタとりの如き心で、とりあげて論ずべきものではないのである。ジャーナリズムは、慎ましくなければならぬ。ジャーナリズムこそ、最も、大いに、人権を尊重することを知らねばならず、自らの職業的特権濫用を反省しなければならぬのである。
底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第三巻第一〇号」
1948(昭和23)年10月1日発行
初出:「オール読物 第三巻第一〇号」
1948(昭和23)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年4月15日作成
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