力が劣へ、従兄に何目か置かせてゐたのが相先になり、逆に何目か置くやうになつてゐた。白痴は強情であつたが臆病であつた。この別邸の裏は新潟の刑務所だが、碁を打つてお前が負けたら刑務所へ入れるとか、土蔵へ入れると云つて脅かす。白痴の方では何年か前には何目か置かせて打つてゐた自信が今も離れないから、せゝら笑つて(まつたくせゝら笑ふのである。呆れるばかり一徹で強情であつた)やりだすのだが、白痴の方は案に相違、いつも負けてしまふ。はてな、と云つて、石が死にかけてから真剣に考へはじめ、どうして自分が負けるのか原因が分らなくて深刻にあわてはじめる、それが白痴の一徹だから微塵も虚構や余裕がなくて勝つ方の愉しさに察せられるものがある。けれども従兄はそれだけで満足ができないので、本当に土蔵へ入れて一晩鍵をかけておいたり、裏門から刑務所の畑の中に突きだして門を閉ぢたりしたものだ。白痴は一晩ヒイ/\泣いて詫びてゐる。そのくせ懲りずに、翌日になると必ずせゝら笑つてやりだすので、負けて悄然今日だけは土蔵へ入れずに許してくれ、へいつくばつて平あやまりにあやまるあとでせゝら笑つて、本当は負ける筈がないのだと呟いて、首を傾けて考へこんでゐる。
 毎晩負けて土蔵へ入れられる辛《つ》らさに、たうとう家出をした。街のゴミタメを漁つて野宿して乞食のやうに生きてをり、どうしても掴まらなくなり、一年ぐらゐ彷徨してゐるうちに、警察の手で精神病院へ送られた。そのときはもう長い放浪で身体が衰弱してをり、冬の暮方、病院で息をひきとつた。
 それはまだ暮方で、別邸では一家が炉端で食事を終へたところであつたが、突然突風の音が起つて先づ入口の戸が吹き倒れ、突風は土間を吹きぬけて炉端の戸を倒し、台所から奥へ通じる戸を倒し、いつも白痴がこもつてゐた三畳の戸を倒して、とまつた。すべては瞬間の出来事で、けたゝましい音だけが残つてゐた。それは全くある人間の全身の体力が全力をこめて突き倒し蹴倒して行つたものであり、たゞその姿が風であつて見えないだけの話であつた。そこへ病院から電話で、今白痴が息をひきとつたといふ報せがあつたのである。
 私は白痴のゴミタメを漁つて逃げ隠れてゐる姿を見かけたことがあつた。白痴の切なさは私自身の切なさだつた。私も、もしゴミタメをあさり、野に伏し縁の下にもぐりこんで生きてゐられる自信があるなら、家を出たい、青空の下へ脱出したいと思はぬ日はなかつた。私はそのころ中学生で、毎日学校を休んで、晴れた日は海の松林に、雨の日はパン屋の二階にひそんでゐたが、私の胸は悲しみにはりさけないのが不思議であり、罪と怖れと暗さだけで、すべての四囲がぬりこめられてゐるのであつた。青空の下へ自分一人の天地へ! 私は白痴の切なさを私自身の姿だと思つてゐた。私はこの白痴とは親しかつた。私は雨の日は別邸へ白痴を訪ねて四目置いて碁を教へてもらふことが度々あつたのである。
 ゴミタメを漁り野宿して犬のやうに逃げ隠れてどうしても家へ帰らなかつた白痴が、死の瞬間に霊となり荒々しく家へ戻つてきた。それは雷神の如くに荒々しい帰宅であつたが、然し彼は決して復讐はしてゐない。従兄の鼻をねぢあげ、横ッ腹を走るついでに蹴とばすだけの気まぐれの復讐すらもしてゐない。彼はたゞ荒々しく戸を蹴倒して這入つてきて、炉端の人々をすりぬけて、三畳のわが部屋へ飛びこんだだけだ。そしてそこで彼の魂魄は永遠の無へ帰したのである。
 この事実は私の胸に焼きついた。私が私の母に対する気持も亦さうであつた。私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ねときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。
 そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。



底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「光 LACLARTE[#「E」はアキュートアクセント付きE、1−9−32] 第二巻第一一号」
   1946(昭和21)年11月1日発行
初出:「光 LACLARTE[#「E」はアキュートアクセント付きE、1−9−32] 第二巻第一一号」
   1946(昭和21)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.
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