私は父の伝記の中で、父の言葉に一つ感心したところがあつて、それは取引所の理事長の父がその立場から人に言ひきかせたといふ言葉で、モメゴトの和解に立つたら徹夜してでも一気に和解させ、和解させたらその場で調印させよ、さもないと、一夜のうちに両方の考へがぐらつき又元へ逆戻りするものだ、と言ひきかせてゐたさうだ。私は尾崎士郎と竹村書房のモメゴトの時、私が間に立つて和解させたが、その場で調印を怠つたために翌日尾崎士郎から速達がきて逆戻りをし、親父の言葉が至言であるのを痛感したことがあつた。そして私は又しても親父の同じ道を跡を追つてゐる私を見出して、非常に不愉快な思ひがしたものであつた。
 父の伝記の中で、私の父が十八歳で新潟取引所の理事の時、十九歳で新潟新聞の主筆であつた尾崎|咢堂《がくどう》が父のことを語つてゐる話があり、私の父は咢堂の知る新潟人のうち酔つ払つて女に狎れない唯一の人間だつたさうだが、それにつけたして「然し裏面のことはどうだか知らない」と咢堂は特につけたしてゐるのである。咢堂といふ人は何事につけても特にかういふ注釈づきの見方をつけたさずにゐられぬ人で、その点政治家よりも文学者により近い人だ。見方が万事人間的、人性的なので、それを特につけたして言ひ加へずにゐられぬといふ気質がある。私の親父にはそれがない。ところが私にはそれが旺盛で、その点では咢堂の厭味を徹底的にもつてゐる。自分ながらウンザリするほど咢堂的な臭気を持ちすぎてゐる。そして私は咢堂によつて「然し裏面のことは知らない」とつけたされてゐる父が、まるで私自身の不愉快な気質によつて特に冒涜されてゐるやうで、私は父に就て考へるたびに咢堂の言葉を私に当てはめて思ひ描いて厭な気持になるのであつた。だから私は、私自身の体臭を嫌ふごとくに咢堂を嫌ふ気持をもつてゐる。私の父は咢堂の辛辣さも甘さも持たなかつた。咢堂が二流の人物なら、私の父は三流以下のボンクラであつた。
 私は父の気質のうちで最も怖れてゐるのは、父の私に示した徹底的な冷めたさであつた。母と私は憎しみによつてつながつてゐたが、私と父とは全くつながる何物もなかつた。それは父が冷めたいからで、そして父が、私を突き放してゐたからで、私も突き放されて当然に受けとつてをり、全くつながるところがなかつた。
 私は私の驚くべき冷めたさに時々気づく。私はあらゆる物を突き放してゐる時がある。その裏側に何があるかといふと、さういふ時に、実は私はたゞ専一に世間を怖れてゐるのである。私が個々の物、個々の人を突き放す時に、私は世間全体を意識してをり、私は私自身をすら突き放して世間の思惑に身売しようとする。私は父がさうであつたと思ふ。父は私利、栄達をはからなかつたとき、自分を突き放して、実は世間の思惑に身売りしてゐたやうに思ふ。私の親父は田舎政治家の親分であり、そしていゝ気になつてゐた。

          ★

 私の冷めたさの中には、父の冷めたさの外に母からの冷めたさがあつた。私の母方は吉田といふ大地主で、この一族は私にもつながるユダヤ的な鷲鼻をもち、母の兄は眼が青かつた。母の兄はまつたくユダヤの顔で、日本民族の何物にも似てゐなかつた。この鷲鼻の目の青い老人は十歳ぐらゐの私をギラ/\した目でなめるやうに擦り寄つてきて、お前はな、とんでもなく偉くなるかも知れないがな、とんでもなく悪党になるかも知れんぞ、とんでもない悪党に、な、と言つた。私はその薄気味悪さを呪文のやうに覚えてゐる。
 私の母は継娘に殺されようとし、又、持病で時々死の恐怖をのぞき、私の子供の頃は死と争つてヒステリーとなり全く死を怖れてゐる女であつたが、年老いて、私と和解して後は凡そ死を平然と待ちかまへてゐる太々《ふてぶて》しい老婆であつた。私には死を突き放した太々しさは微塵もなく、凡そ死を怖れる小心だけが全部の私の思ひなのだが、私は然し、母から私へつながつてゐる異常な冷めたさを知つてゐる。
 私の母は凡そ首尾一貫しない女で、非常にケチなくせに非常に豪放で、一銭を惜しむくせに人にポン/\物をやり、一枚の瀬戸物を惜しむ反面、全部の瀬戸物をみんな捨てゝ突然新調したりする、移り気とも違ひ、気分屋とも違ふ、惜しむ時と捨てる時と心につながりがないので、惜しむ時はケチで、捨てる時は豪快で、その両方を関係させずに平然としてゐられる女であつた。人に気前よく物を呉れてやる時にも別に相手の人に愛情はないので、それはそれだけで切り離されてをり、二度目を当にしてももう連絡はないので、今度はひどくケチな反面を見せられてウンザリさせられたりするのである。人のことなど考へてやしないのだ。何でも当然と思つて受け入れる。どうでもいゝやと底で思ひ決してゐるからで、凡そ根柢的に冷めたい人であつた。私の家には書生がたくさんゐ
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