で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた。

          ★

 私は私の気質の多くが環境よりも先天的なもので、その一部分が母の血であることに気付いたが、残る部分が父からのものであるのを感じてゐた。私は父を知らなかつた。そこで私は伝記を読んだ。それは父の中に私を探すためであつた。そして私は多くの不愉快な私の影を見出した。父に就て長所美点と賞揚せられてゐることが私にとつては短所弱点であり、それは私に遺恨の如く痛烈に理解せられるのであつた。
 父は誠実であつた。約をまもり、嘘をつかなかつた。父は人のために財を傾け、自分の利得をはからなかつた、父は人に道をゆづり、自分の栄達をあとまはしにした。それは全て父の行つた事実である。そしてそれは私に於てその逆が真実である如く、父に於ても、その逆が本当の父の心であつたと思ふ。父は悪事のできない男であつた。なぜなら、人に賞揚せられたかつたからである。そしてそのために自分を犠牲にする人であつたと私は思ふ。私自身から割りだして、さう思つたのである。
 私は先づ第一に父のスケールの小さゝを泣きたいほど切なく胸に焼きつけてゐるのだ。父は表面豪放であつたが、実はうんざりするほど小さな律義者でありながら、実は小さな悪党であつたと思ふ。
 私がなぜ殆ど私の無関係なこの老人をスケールの小さゝで胸に焼きつけてゐるかといふと、私は震災のとき、東京にをり、父はもう死床に臥したきり動くことができなかつた。私は地震のときトラムプの一人占ひをやつてゐると、ガタ/\ゆれて壁がトラムプを並べた上へ落ちた。立上つて逃げだすと戸が倒れ、唐紙、障子が倒れ、それをひよろ/\とさけながら庭へ下りると瓦が落ちてくる、私は父を思ひだして寝室へはいると、床の間の鴨居が落ちてをり、そこで父の枕元の長押《なげし》を両手で支へてゐたことを覚えてゐる。
 その翌日であつたと思ふ。私は父に命ぜられて火事見舞に行つた。加
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