。だから母はひどいヒステリイであつた。その怒りが私に集中してをつた。
私は元来手のつけられないヒネクレた子供であつた。子供らしい可愛さなどの何一つない子供で、マセてゐて、餓鬼大将で、喧嘩ばかりしてゐた。私が生れたとき、私の身体のどこかゞ胎内にひつかゝつて出てこず母は死ぬところであつたさうで、子供の多さにうんざりしてゐる母は生れる時から私に苦しめられて冷めたい距離をもつたやうだ。おまけに育つにつれて手のつけられないヒネクレた子供で、世間の子供に例がないので、うんざりしたのは無理がない。
私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでゐた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでゐるのではないので、書いてあることが面白いから熟読してをり、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載つてゐた。私は小説は読まなかつた。面白くなかつたのだ)を読み、角力《すもう》の記事を読む。この角力の記事には当時は必ず四十八手の絵がはいつてをり、この絵がひどく魅力であつたのを忘れない。私は小学校時代は一番になつたことは一度もない。一番は必ず山田といふお寺の子供で二番が私か又は横山(後にペンネームを池田寿夫といふ左翼の評論家か何かになつた人である)といふ人で、私はたいがい横山にも負けて三番であつたやうに記憶する。私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであつた。外の町内の子供と喧嘩をする。すると喧嘩のやり方が私のやることは卑怯至極でとても子供の習慣にない戦法を用ひるから、いつも憎まれ、着てゐる着物は一日で破れ、いつも乞食の子供のやうな破れた着物をきてゐた。そして、夜になつて家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合ふことであつた。
私の母を苦しめたのは貧乏と私だけではないので、そのころは母に持病があつて膀胱結石といふもので時々夜となく昼となく呻り通してゐる。そのうへ、私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違はぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上
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