持っているのだ。この人間の精神の悲しむべき非現実性と、現実の家庭生活や恋愛生活との開きを、なんとかして合理化しようとする人があるけれども、これは理論ではどうにもならないことである。どちらか一方をとるより外には仕方がなかろう。
 一昔前の話だけれども、その頃僕はある女の人が好きになって、会わない日にはせめて手紙ぐらい貰わないと、夜がねむれなかった。けれども、その女の人には僕のほかに恋人があって僕よりもそっちの方が好きなのだと僕は信じていたので、僕は打ち明けることが出来なかった。そのうちに女の人とも会わなくなって、やがて僕は淪落の新らたな世間に瞬きしていたのであった。僕はもう全然生れ変っていた。僕はとてもスタンダールのようにヌケヌケしたことが言えないので、正直なところ、この女の人はもう僕の心に住んでいない。ところが、会わなくなってから三年目ぐらいに(その間には僕は別の女の人と生活していたこともあった)女の人が突然僕を訪ねてきて、どうしてあの頃好きだと一言言ってくれなかったと詰問した。女の人も内心は最も取乱していたのであろうが、外見は至極冷静で落着いて見えた。僕はすっかり取乱してしまったので
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