の足跡のひとつ、数年前の京都の小さな活動小屋の出来事がこんなにハッキリ指摘されるものだとは。僕も甚だ面喰った。
 僕は梅若万三郎や菊五郎の舞台よりも、サーカスやレビューを見ることが好きなのだ。それは又、第一流の料理を味うよりも、ただ酒を飲むことが好きなのと同じい。然し、僕は酒の味が好きではない。酔っ払って酒の臭味が分らなくなるまでは、息を殺して我慢しながら飲み下しているのである。
 人は芸術が魔法だと云うかも知れぬが、僕には少し異論がある。対坐したのでは猥褻見るに堪えがたくて擲《なぐ》りたくなるような若者がサーカスのブランコの上へあがると神々しいまでに必死の気魄で人を打ち、全然別人の奇蹟を行ってしまう。これは魔法的な現実であり奇蹟であるが、しかもこの奇蹟は我々の現実や生活が常にこの奇蹟と共に在る極めて普通の自然であって、決して超現実的なものではない。レビューの舞台で柔弱低脳の男を見せつけられては降参するが、モリカワシンの堂々たる男の貫禄とそれをとりまいて頼りきった女達の遊楽の舞台を見ると、女達の踊りがどんなに下手でも又不美人でも一向に差支えぬ。甘美な遊楽が我々を愉しくさせてくれるのである。これも一つの奇蹟だけれども、常に現実と直接不離の場所にある奇蹟で、芸術の奇蹟ではなく、現実の奇蹟であり、肉体の奇蹟なのである。酒も亦、僕にはひとつの奇蹟である。
 僕は碁が好きだけれども、金銭を賭けることは全く好まぬ。むしろ、かかる人々を憎み蔑《さげす》むのである。大体、賭事というものは運を天にまかして一か八かというところに最後の意味があるのである。サイコロとルーレットのようなものが、本当の賭事なのだ。碁のような理智的なものは、勝敗それ自身が興味であって、金銭を賭けるべき性質のものではない。運を天にまかして一か八かという虚空から金がころがりこむなら大いに嬉しくもなろうけれども、長時間にわたって理智を傾けつくす碁のようなもので金銭を賭けたのでは、一番見たくない人間の悪相をさらけだして汚らしくいどみ合うようなもので、とても厭らしくて勝負などは出来ぬし、勝つ気にもなれぬ。ああいう理智的なもので金銭を賭ける連中は品性最も下劣な悪党だと僕は断定している。
 然しながら、カジノのルーレットの如きもの、いささかの理智もなく、さりとてイカサマも有り得ない。かかるものも亦現実のもつ奇蹟のひとつである。人はあそこに金を賭けているのではなく、ただ落胆か幸福か、絶望か蘇生か、実際死と生を天運にまかせて賭ける人もいるのだ。あそこでは自らを裁くほかには犠牲者、被害者が誰もいない。理智という嵐が死に、我自らを裁くに、これぐらい誂《あつら》え向きの戦場はないのである。
 我が青春は淪落だ、と僕は言った。然して、淪落とは、右のごときものである。即ち、現実の中に奇蹟を追うこと、これである。この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、然らずんば――鳴呼《ああ》、然し、破滅以外の何物が有り得るか! 何物が有り得ても、恐らく満ち足りることが有り得ないのだ。
 この春、愛妻家の平野謙が独身者の僕をみつめてニヤニヤ笑いながら、決死隊員というものは独身者に限るそうだね、妻帯者はどうもいかんという話だよ、と仰有《おっしゃ》るのである。これは平野謙の失言だろうと僕は思った。原稿紙に向えば、こういう気楽な断定の前に、まだ色々と考える筈の彼なのである。こうなると、女房というものはまるで特別の魔女みたいなものだ。ひどく都合のいいものである。女一般や恋人はどうなるのか。女房はとにかくとして、有情の男子たるもの、あに女性なくして生き得ようか。
 とはいうものの、僕は又考えた。これはやっぱり平野君の失言ではない。こういう単純怪奇な真理が実際に於て有り得るのである。それは女房とか家庭というもの自体にこのような魔力があるのではなく、女房や家庭をめぐって、こんな風な考え方が有り得るという事柄のうちに、この考えが真理でもあるという実際の力が存在しているのである。こういう考え方があり、こういう風に考えることによって、こういう風に限定されてしまうのである。真理の一面はたしかにこういう物でもある。
 実際、わが国に於ては、夫婦者と独身者に非常にハッキリと区別をつけている。それは決して事変このかた生めよ殖《ふや》せよのせいではなく、もっと民族的な甚だ独特な考え方だと僕は思う。独身者は何かまだ一人前ではないというような考え方で、それは実際男と女の存在する人間本来の生活形態から云えばたしかに一人前の形を具えておらぬかも知れぬけれども、たとえば平野謙の如き人が、まるで思想とか人生観というものにまで、この両者が全然異質であるかのような説をなす。俗世間のみの考えでなく、平野君ごとき思索家に於ても、尚、かような説を当然として怪しまぬ風
前へ 次へ
全18ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング