そして、東京へ戻った時だけ、遊んで貰うわけには行かないか」
その場所エッちゃんは十両二枚目で、ここで星を残すと入幕できるところであった。私はなんとなくエッちゃんを励まして出世させたいと思ったから、
「そうね、じゃア、今場所全勝したら、どこかへ泊りに行ってあげる」
「全勝か。全勝はつらいね」
「だって女の気持はそんなものだわ。関取がギターかなんか巧くったって、そんなことで女は口説かれないと思うわ。関取は相撲で勝たなきゃダメよ。あなたの全勝で買われたと思えば、私だって気持に誇りがもてるわ」
「よし、分った。きっと、やる。こうなりゃ是が非でも全勝しなきゃア」
しかし結果はアベコベだった。エッちゃんはそういう気質なのだ。励んだり、気負いたっているとき、出はなに躓《つまず》くと、ずるずると、それはもう惨めとも話にならぬだらしなさで泥沼へ落ちてしまう。初日に負けて、いいのよ、あとみんな勝って下されば、二日目も負け、いいわ、あと勝って下されば、で千秋楽まで、楽の日は私もとうとうふきだして、いいわ、楽に初日をだしてよ、きっと約束まもってあげる、けれどもダメ、つまり見事にタドンであった。
エッちゃんには都会人らしい潔癖があるから、初日に躓いたとき、もうダメだったので、約束通り全勝して晴れて私を抱きしめたかったに相違ない。おなさけ、というようなことでは自分自ら納得できない気分を消し去ることができない気質であった。
私はしかしエッちゃんが約束通り全勝したらとても義務的なつきあいしかできなかったと思うけれども、見事にタドンだから、いじらしくてせつなくなった。
私はエッちゃんを励まして、共に外へでた。まだ中入前で、久須美は何も知らずサジキに坐って三役の好取組を待っているのだが、私は急に心がきまると、久須美のことはほとんど心にかからず、ただタドンのいじらしさ、人間侮蔑に胸がせまって、好取組の見物などという久須美が憎いような気持まで流れた。
「私、待合や、ツレコミ宿みたいなところ、イヤよ。箱根とか熱海とか伊東とか、レッキとした温泉旅館へつれて行ってちょうだい。切符はすぐ買えるルート知ってるのよ」
「でも僕は明日から三四日花相撲があるんだ。本場所とちがって、こっちの方は義理があるのでね」
「じゃアあなた、あしたの朝の汽車で東京へ帰りなさい」
私はすべて予約されたことには義務的なことしかできず私の方から打ちこむことができないタチであったが、思いがけない窓がひらかれ気持がにわかに引きこまれると、モウロウたる常に似合わず人をせきたて有無をいわさず引き廻すような変に打ちこんだことをやりだす。私自身が私自身にびっくりする。女というものは、まったく、たよりないものだ、と私はそんな時に考える。
温泉で意気銷沈のエッちゃんにお酒をすすめて、そして私たちが寝床についたとき、
「エッちゃん、今まで、いうの忘れてたわ」
「なにを?」
「ごめんね」
「なにをさ」
「ごめんねをいうのを忘れてたのよ。ごめんなさい、エッちゃん」
「なぜ」
「だって、とても、人間侮蔑よ」
「人間侮蔑って、何のことだい」
「全勝してちょうだい、なんて、人間侮蔑じゃないの。私、エッちゃんにブン殴られてもいいと思ったわ」
エッちゃんはわけが分らない顔をしたが、私は私のことだけで精いっぱいになりきるだけのタチだから、
「エッちゃんはタドン苦しいの? 平気じゃないの。私むしろとても嬉しいのよ。許してちょうだいね。私が悪かったのよ。だから、エッちゃん」
私は両手をさしのべた。久須美のほかの何人にも見せたことのない天然自然の媚態がおのずから私のすべてにこもり、私はもはや私のやさしい心の精であるにすぎなかった。
翌日、エッちゃんは明るさをとりもどしていた。それは本場所のタドンよりも私との一夜の方がプラスだという考えが彼を得心させたからで、そして彼がそういう心境になったことが、私の気分を軽快にした。
「人間侮蔑っていったね。僕が人を土俵にたたきつけるのが人間侮蔑だってえのかい。だって、それじゃア、年中負けてなきゃアお気に召さないてんじゃア」
「そうじゃないのよ」
「じゃアなんのことだい」
「いいのよ、もう。私だけの考えごとなんですから」
「教えてくれなきゃ、気になるじゃないか。かりそめにも人間侮蔑てえんだからな」
「いっても笑われるから」
「つまり、女のセンチなんだろう」
「ええ、まア、そうよ。綺麗な海ね。ここが私の家だったら。私、今朝からそんなことを考えていたのよ」
「まったくだなア。土俵、見物衆、巡業の汽車、宿屋、僕ら見てるのは人間と埃ばっかり、どこへ行っても附きまとっていやがるからな。なア、サチ子さん、相撲とりが本場所が怖くなるようじゃア、生れ故郷の墨田川へ戻るのが怖しくって憂鬱なんだから、僕はお
前へ
次へ
全21ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング