僕は精神病者というものを兇暴なものだと幻想しており、何よりも、僕自身、歩行も不可能で、防禦や抵抗の手段が失われているのだから、五人の合宿ということに、病的な恐怖をいだいた。
 そのとき石川淳が見舞いに駈けつけてくれて、合い部屋だっていゝじゃないか。たゞ眠るのだから、他人の存在は問題ではない。一時間、一分でも早く入院しろ。昔、吉原に割り部屋というものがあったし、汽車の寝台も割り部屋みたいなものであり、同じ部屋で寝ている奴が殺人犯だか強盗だか見当がつかなかった筈だが、それを怖れたこともなかったし、問題が起ったということもない。割り部屋だと思えば、なんでもないさ、と慰め、すすめてくれた。
 今は割り部屋がなくなったし、割り部屋があったら、いつ洋服など身ぐるみ盗んでドロンされるか見当もつかず、それだけ世間が平和じゃないんだ、と石川淳が、彼らしい述懐によって世相をガイタンしていたのを妙にハッキリ記憶している。
 ところが東大の神経科へ乗りつけたら、妙な偶然で、まだ退院には間があると思われていた患者が退院し、僕は一人だけの部屋へ入院することができた。衰えはてた僕は、その時ひどく安心したが、治療が終って、健康をとり戻して後は、むしろ五人の合部屋へ入院しなかったことを残念だと思った。僕は彼らの生態をこまかく観察する条件を失ってしまったのである。
 然し、廊下や洗面所や便所で、狂躁にみちており、無礼であり、センスを失い、ガサツな人々はむしろ概ね附き添いたちであり、患者は静かで、慎んでいるのが普通であった。

 僕の入院が知れ渡ると、新聞記者が写真班同伴で十何組も乗りつけて、千谷さんは、撃退するに手こずられた由であった。すると、僕が麻薬中毒だという説がとび、警視庁の三人の麻薬係が現れ、千谷さんはカルテを見せて説得するのに二時間もかかったとこぼしておられた。
 すると今度は、僕が精神病院の三階から飛び降り自殺をしたというデマで、又、十何組という写真班同伴の新聞記者に病院が大迷惑をかけられたが、その時、某新聞の記事に曰く、病院側が僕と記者との面接を拒否したことから次第にデマが生じた、と書いていた。
 こういう記事を書く社会部記者の教養を疑わざるを得ない。精神病患者の発病当時の苦痛というものは、他人と面会などのできる性質のものではないのである。数日間食事をとることもできず(肉体的にその機能を
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