ので、文作の記憶によっても、彼が到着した時から立ち去る時まで鳴りつづいていたように思われるのである。すくなくとも、誰かが一度とめたり、またひねったりしたような出来事の記憶はなかった。
 木曾は云った。
「ふだんなら、僕が室内へ行ってラジオをとめるところですが、当日安川さんが見えてられるときいてたものですから、そのための何かの必要によるものと考えて、ほッたらかしておいたんです。ラジオの鳴ってることは知ってましたとも。異常な事ですからね」
 ここにも異常が一つふえたが、やっぱり他殺の確実な証拠にはならない。あとに残った問題は、ピストルが誰の物かということぐらいだ。神田がピストルを所持していることはアケミも木曾も知らなかった。
「先生の寝室のどのヒキダシも、押入の奥の奥まで、先生の知らないことまで私は知ってるのですもの。このピストルはウチの物ではありません」
 とアケミは断言した。しかしその断言を裏づける確証はこれまたない。
 しかし、各新聞は云い合わせたように他殺の疑いをすてなかった。自殺にせよ、他殺にせよ、久子が銃声をきかないのは変だ。他殺なら、銃声をごまかすための作為があるかも知れないが、自殺の場合にそんな作為は有り得ない。したがって、銃声がきこえないのは他殺の証拠だと考えているのである。そして、その裏には、概ね久子が犯人だときめている様子であった。
「畜生め。他殺かも知れないが、安川久子が犯人だなんて」
 と文作は新聞を読むたびカンカンに腹を立てたが、彼の力ではどう脳ミソをしぼっても彼女の無罪を証明する手が見つからない。
 そこで旧友の巨勢《こせ》博士を訪ねて、その意見をきくことにした。二人は一しょに同人雑誌をだしたことのあるその上《かみ》の文学青年であった。

          ★

「来る頃だと思っていたよ。君の頭じゃ、どうにもならないからな」と巨勢博士はキゲンうるわしく文作を迎えた。
「まア、かけたまえ。君の来訪に備えて東京の全紙から事件のスクラップをとっておいたが、云い合わしたように報道に欠けてるところがあるね。特に君の新聞がひどいや。君の証言がよほど確実だと思いこんでるらしいな」
「当り前じゃないか、この目で実地に見たことだもの」
 文作が凄い見幕を見せたから巨勢博士はさからわなかった。
「どの新聞にも欠けているのは、君が神田家へ到着するまでの出来事に関する調査だね」
「オレの到着前のことは無用さ。オレが立去る瞬間まで神田兵太郎氏は生きていたのだから」
「イヤ、イヤ。彼の生死にかかわらず、神田家に異常が起ってからのことは漏れなく調査されなければならない」
「異常とは?」
「たとえばラジオ。そのまた先には女中への手紙。そのまた先には神田氏から久子さんへの電話。それは事件の前日午後二時だから、すくなくとも、その時刻までさかのぼって、それ以後の各人の動勢をメンミツに調査しなければならないのさ」
「ずいぶんヒマな探偵だな」
「書生の木曾が当日どこへ買いだしにでかけたかそのアリバイの裏づけ調査を行ってる新聞も一紙しか見当らないぜ。それによると、木曾はFから約七|哩《マイル》のQ駅のマーケットまで洋モク洋酒その他を買いにでかけているのさ。彼がフィルムを買った写真屋はこう証言してるね。木曾さんが見えられたのは十一時前後でしたろう。現像したフィルムと新しいのとをポケットへねじこみ四五分ムダ話ののち自転車で立去りましたよ、とね。QとFの距離は自転車で三四十分だね。もっとも競輪選手なら二十分以内でぶッとばすことができるかも知れないが、一番普通に考えて木曾が当然の時刻にQで買物していることは彼自身の証言通りと考えていいね」
「木曾の行動で疑問なのは坂で僕らとすれちがってからの何分間だ」
「それは各紙がもれなく論じていることさ。僕は目下各紙の調査もれを考案中で――もっとも、各紙の調査もれは君の調査もれでもあろうから、君に訊いても要領を得ないだろうね。君がF駅へ下車した十一時三十五分以後のことを語ってくれたまえ」
「神社の前で安川久子と言葉を交した以外には道で特別のことはない」
「神田邸では?」
「呼鈴を押すとアケミさんが現れて広間へ通してくれた。アケミさんはマントルピースの上から原稿をとってくれて、サンドウィッチとコーヒーを持ってきてくれたから、二人でそれを食って……」
「アケミさんも?」
「左様。それが毎日の例なんだ。神田氏の食事の時間は不規則でずれてるから、アケミさんはオレを待ってて一しょにサンドウィッチとコーヒーをとる。いつもなら女中が運んでくるが、その日はアケミさん自身が運んでくれて差向いでいただいた。十分間ぐらいして、サンドウィッチをほぼ平らげたころに、浴室の神田氏がタオルと怒鳴ったので、アケミさんは座を立った」
「それまでは君と一しょだね」
「左様。台所へサンドウィッチを取りに立ってくれた以外はね。さて神田氏はシャワーをとめてアケミさんからタオルをうけとってくるまって……」
「見ていたのかい」
「バカ。よその浴室をのぞく奴があるかい。神田氏は口笛ふいて寝室へかけこみ、アケミさんは広間へ戻ってきた。そのときアケミさんはうかない顔で、先生が待ちかねてるが、電車で安川さんと一しょじゃなかったかと訊いたんだ。さてはあの美女が安川嬢かと思うところへ安川嬢が到着したのさ。アケミさんが安川嬢を居間へ通す。とたんに寝室の先生が大声でアケミさんを呼んだからアケミさんはドアから首だけ差しこんで」
「ドアから首だけだね」
「左様。先生がアケミさんに散歩してこいと云った」
「ひどいことを云うね。それを君もきいたんだね」
「その声は低かったから、オレにはよくききとれなかったが、アケミさんがバタンとドアをしめて怒って戻ってきて、オレをうながして外へでたのさ。すると正午のサイレンさ」
「つまり君は神田先生には会わないのだね」
「百日のうち拝顔の栄に浴したのは三十日ぐらいのものさ。彼氏は名題の交際ギライでね」
「君がチゴサンてわけではなかったのかい」
「よせやい」
「ねえ。君。各紙は神田兵太郎氏の性生活を面白おかしく書き立てているが、実はみんな想像にすぎない。そして神田氏が浪費家で一文の貯えもないことを当然だと思っているらしいが、神田氏の食生活や性生活は門外漢には神秘的かも知れないが、一千万円の年収がそっくり出てしまうほど金のかかる生活だろうか。彼氏がケチなのも名高いのに、一文の貯蓄もないのは変じゃないか」
「道楽者の生活はそんなものさ」
「ところが安川久子嬢は云ってるぜ。先生から私的なお話をうけたのは事件前日の電話だけだとね。各紙の躍起の調査の結果も、彼女の私生活から蔭の生活をあばくことに成功していない。一方毛利アケミも他に愛人はいないようだと云っているぜ」
「浮気は人に知られずに行うものさ。特に女房にはね」
「君たちは何よりも重大なことを見落しているのだよ。安川久子嬢は洗えば洗うほど可憐なお嬢さんの正体がハッキリでてくるばかりじゃないか。その久子嬢をなぜ全面的に信じようとしないのだろう? その原因の大きな一ツは君の存在さ。君自身は気づかないらしいが、安川久子嬢が犯人らしいと各新聞社に思われている最大の根拠は、矢部文作という新聞記者が十一時四十五分から十二時までの動かしがたい証言をしているからなんだよ」
「それは重々認めているよ。オレが神社の前で佇んでいた彼女のこと云ったばかりに」
「イヤ、それじゃない。君が神田家へ到着してから、つまり十一時四十五分から正午までだ。君は神田氏を見たわけじゃない。しかし、君も、そして人々も、君が神田氏を見たものと思いこんでいるのさ」
「神田氏はたしかに生きていたよ。その声をハッキリきいてる」
「然り。然り。君は声をきいてる。また口笛と、シャワーの音をね。ところが安川久子嬢はピストルの音をきかないと云いはるのだ。その日の異常は全てが音だぜ。ラジオも音だ。視覚については異常は起っていないのだ。そして、もし安川嬢を全面的に信頼するとすれば、どういう結論が現れると思うかね。即ち、いかにラジオの雑音があったにしても、隣室のピストルの音をききもらす筈がないということだ。彼女は広間の電話の音すらも聞きのがしていない。その彼女がいかなる瞬間といえども隣室のピストルの音を聞き逃すことがあるものか。さすれば結論は明瞭じゃないか。ピストルは彼女が神田家に到着後に発射されたものではないということだ」
「オレが広間にいる間にもピストルの音なんぞ聞きやしないよ」
「然りとすればピストルはそのまた前に発射されたにきまってるさ」
「しかし、アケミさんは神田氏と話を交しているじゃないか」
「死人と話のできる人が犯人にきまってるのさ。ちかごろはテープレコーダーというものが津々浦々に悪流行をきわめているのでね。ラジオの雑音でごまかすと、テープレコーダーで肉声の代りをつとめさせるのはむずかしいことではなくなったよ」
 呆気にとられている文作に巨勢博士はやさしく云った。
「ねえ、君。かの楚々たる安川久子嬢のために奮起しながら、なぜ君は安川嬢の証言を全面的に信頼しようとしなかったのさ。新聞記者のウヌボレだね。自分の経験を疑うべからざるものと思いこんでいるからさ。愛とは神と同じものだよ。一瞬高くひらめいた時にはね。安川久子嬢を神サマと同じように信頼すれば、そして安川嬢の証言の故にそれが自分の経験よりも尊いと悟れば、この事件の謎は君が苦もなく解いていたはずなのさ。真犯人を見つけることと、本当に女に惚れることとは、同じようなものらしいぜ。本当の物とは結局同じようなものなんだ。だから僕は探偵よりも美女に崇敬をささげる方に忙しいのさ」
 と、巨勢博士は文作を置きのこし、帽子をつかんで、アイビキに駈けだしてしまった。
 文作の後日の奮闘によってアケミの犯行が発《あば》かれた。彼女は神田氏が安川久子に心を動かし始めたのを見破って以来、神田氏を殺して全財産を乗ッとる計画をねっていたが、神田氏が久子に呼びだしの電話をかけたのを知って女中と書生を外出させ文作の到着の一時間も前にバスをあびた神田氏を殺しておいて、かねて用意のテープレコーダーで正午以後の殺人と思わせ、巧みに自分のアリバイをつくったのである。
 文作の折角の奮励努力も、気の毒ながら楚々たる美女との交渉を発展させることはできなかった模様である。



底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第七巻第一〇号」
   1953(昭和28)年8月1日発行
初出:「小説新潮 第七巻第一〇号」
   1953(昭和28)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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