君と一しょだね」
「左様。台所へサンドウィッチを取りに立ってくれた以外はね。さて神田氏はシャワーをとめてアケミさんからタオルをうけとってくるまって……」
「見ていたのかい」
「バカ。よその浴室をのぞく奴があるかい。神田氏は口笛ふいて寝室へかけこみ、アケミさんは広間へ戻ってきた。そのときアケミさんはうかない顔で、先生が待ちかねてるが、電車で安川さんと一しょじゃなかったかと訊いたんだ。さてはあの美女が安川嬢かと思うところへ安川嬢が到着したのさ。アケミさんが安川嬢を居間へ通す。とたんに寝室の先生が大声でアケミさんを呼んだからアケミさんはドアから首だけ差しこんで」
「ドアから首だけだね」
「左様。先生がアケミさんに散歩してこいと云った」
「ひどいことを云うね。それを君もきいたんだね」
「その声は低かったから、オレにはよくききとれなかったが、アケミさんがバタンとドアをしめて怒って戻ってきて、オレをうながして外へでたのさ。すると正午のサイレンさ」
「つまり君は神田先生には会わないのだね」
「百日のうち拝顔の栄に浴したのは三十日ぐらいのものさ。彼氏は名題の交際ギライでね」
「君がチゴサンてわけではなかったのかい」
「よせやい」
「ねえ。君。各紙は神田兵太郎氏の性生活を面白おかしく書き立てているが、実はみんな想像にすぎない。そして神田氏が浪費家で一文の貯えもないことを当然だと思っているらしいが、神田氏の食生活や性生活は門外漢には神秘的かも知れないが、一千万円の年収がそっくり出てしまうほど金のかかる生活だろうか。彼氏がケチなのも名高いのに、一文の貯蓄もないのは変じゃないか」
「道楽者の生活はそんなものさ」
「ところが安川久子嬢は云ってるぜ。先生から私的なお話をうけたのは事件前日の電話だけだとね。各紙の躍起の調査の結果も、彼女の私生活から蔭の生活をあばくことに成功していない。一方毛利アケミも他に愛人はいないようだと云っているぜ」
「浮気は人に知られずに行うものさ。特に女房にはね」
「君たちは何よりも重大なことを見落しているのだよ。安川久子嬢は洗えば洗うほど可憐なお嬢さんの正体がハッキリでてくるばかりじゃないか。その久子嬢をなぜ全面的に信じようとしないのだろう? その原因の大きな一ツは君の存在さ。君自身は気づかないらしいが、安川久子嬢が犯人らしいと各新聞社に思われている最大の根拠は、矢部文作という新聞記者が十一時四十五分から十二時までの動かしがたい証言をしているからなんだよ」
「それは重々認めているよ。オレが神社の前で佇んでいた彼女のこと云ったばかりに」
「イヤ、それじゃない。君が神田家へ到着してから、つまり十一時四十五分から正午までだ。君は神田氏を見たわけじゃない。しかし、君も、そして人々も、君が神田氏を見たものと思いこんでいるのさ」
「神田氏はたしかに生きていたよ。その声をハッキリきいてる」
「然り。然り。君は声をきいてる。また口笛と、シャワーの音をね。ところが安川久子嬢はピストルの音をきかないと云いはるのだ。その日の異常は全てが音だぜ。ラジオも音だ。視覚については異常は起っていないのだ。そして、もし安川嬢を全面的に信頼するとすれば、どういう結論が現れると思うかね。即ち、いかにラジオの雑音があったにしても、隣室のピストルの音をききもらす筈がないということだ。彼女は広間の電話の音すらも聞きのがしていない。その彼女がいかなる瞬間といえども隣室のピストルの音を聞き逃すことがあるものか。さすれば結論は明瞭じゃないか。ピストルは彼女が神田家に到着後に発射されたものではないということだ」
「オレが広間にいる間にもピストルの音なんぞ聞きやしないよ」
「然りとすればピストルはそのまた前に発射されたにきまってるさ」
「しかし、アケミさんは神田氏と話を交しているじゃないか」
「死人と話のできる人が犯人にきまってるのさ。ちかごろはテープレコーダーというものが津々浦々に悪流行をきわめているのでね。ラジオの雑音でごまかすと、テープレコーダーで肉声の代りをつとめさせるのはむずかしいことではなくなったよ」
 呆気にとられている文作に巨勢博士はやさしく云った。
「ねえ、君。かの楚々たる安川久子嬢のために奮起しながら、なぜ君は安川嬢の証言を全面的に信頼しようとしなかったのさ。新聞記者のウヌボレだね。自分の経験を疑うべからざるものと思いこんでいるからさ。愛とは神と同じものだよ。一瞬高くひらめいた時にはね。安川久子嬢を神サマと同じように信頼すれば、そして安川嬢の証言の故にそれが自分の経験よりも尊いと悟れば、この事件の謎は君が苦もなく解いていたはずなのさ。真犯人を見つけることと、本当に女に惚れることとは、同じようなものらしいぜ。本当の物とは結局同じようなものなんだ。だから僕は探偵より
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