文作という新聞記者が十一時四十五分から十二時までの動かしがたい証言をしているからなんだよ」
「それは重々認めているよ。オレが神社の前で佇んでいた彼女のこと云ったばかりに」
「イヤ、それじゃない。君が神田家へ到着してから、つまり十一時四十五分から正午までだ。君は神田氏を見たわけじゃない。しかし、君も、そして人々も、君が神田氏を見たものと思いこんでいるのさ」
「神田氏はたしかに生きていたよ。その声をハッキリきいてる」
「然り。然り。君は声をきいてる。また口笛と、シャワーの音をね。ところが安川久子嬢はピストルの音をきかないと云いはるのだ。その日の異常は全てが音だぜ。ラジオも音だ。視覚については異常は起っていないのだ。そして、もし安川嬢を全面的に信頼するとすれば、どういう結論が現れると思うかね。即ち、いかにラジオの雑音があったにしても、隣室のピストルの音をききもらす筈がないということだ。彼女は広間の電話の音すらも聞きのがしていない。その彼女がいかなる瞬間といえども隣室のピストルの音を聞き逃すことがあるものか。さすれば結論は明瞭じゃないか。ピストルは彼女が神田家に到着後に発射されたものではないということだ」
「オレが広間にいる間にもピストルの音なんぞ聞きやしないよ」
「然りとすればピストルはそのまた前に発射されたにきまってるさ」
「しかし、アケミさんは神田氏と話を交しているじゃないか」
「死人と話のできる人が犯人にきまってるのさ。ちかごろはテープレコーダーというものが津々浦々に悪流行をきわめているのでね。ラジオの雑音でごまかすと、テープレコーダーで肉声の代りをつとめさせるのはむずかしいことではなくなったよ」
呆気にとられている文作に巨勢博士はやさしく云った。
「ねえ、君。かの楚々たる安川久子嬢のために奮起しながら、なぜ君は安川嬢の証言を全面的に信頼しようとしなかったのさ。新聞記者のウヌボレだね。自分の経験を疑うべからざるものと思いこんでいるからさ。愛とは神と同じものだよ。一瞬高くひらめいた時にはね。安川久子嬢を神サマと同じように信頼すれば、そして安川嬢の証言の故にそれが自分の経験よりも尊いと悟れば、この事件の謎は君が苦もなく解いていたはずなのさ。真犯人を見つけることと、本当に女に惚れることとは、同じようなものらしいぜ。本当の物とは結局同じようなものなんだ。だから僕は探偵より
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