うよりも、拾い漁ってと云う方が正しいような話でしたな。買い漁る必要はないのです。別荘をすてて逃げているのですから。引越しの運賃になれば、よろこんで売るそうです」
みんな知っているな、と野口は相手を憎んだが、主眼は、どこまでも商売だ。一銭でも高く売りつければ、すむことだ。
「あなたは、まだ誤解してらッしゃるようですな。売り別荘はタダが当然ですとも。しかし私のは、別荘の価値じゃなくて、田畑と源泉の値段です」
「それでしたら、千円ですな。もう、ちょッと安いかも知れない」
「この田畑と源泉が、たった千円ですか!」
「ええ、千円です」
「何から割りだしたお値段ですか。ひとつ、後学のために、きかせて下さい」
「敵の上陸を二ヵ月後として、別荘二ヵ月間のお家賃六十円。それも、四五日後に敵が上陸すれば、丸損ですな。二ヵ月後から十数年間は不毛の沙漠となりますから、土地も源泉も値のつけようがありません。値のつくものは、三十羽ほどの鶏と、いま畑にできている野菜だけです。これを高く見積って、全部でせいぜい千円です。食べきらぬうちに敵が上陸すれば、これも丸損になります。そこを半々にみて、五百円がいい値でしょうな」
「あなた、また、五百円に下ったんですか!」
「ええ、そうなります。それでも高い」
「まだ下るんですか!」
「ええ」
「いくらに!」
「明日、敵が改めてくるかも知れない。今夜かも知れない。いえ、もう、大島辺に敵の艦影が見えて、今に空襲警報がなるかも知れない」
「なるほど。すると?」
「タダです」
「タダなら貰って下さるんですか。イヤ、まったく光栄です。あいにく、そのときは私が鶏と野菜をたべなければなりませんから、さしあげるわけにはいきません」
「私、千円で買ってさしあげましょう」
「ハハア。買ってさしあげて下さいますか。千円でねえ」
「ええ。買ったトタンに敵の上陸作戦がはじまっても、私の不運とあきらめます。あきらめては、いけないのです。あきらめては、この戦争に勝てません。鶏小屋の家賃にしてはすこし高いと思いますが、長らくお世話になったお礼として当然だと思って、あきらめるのです」
「なるほど。たいへん勉強になりました。色々の計算法があるものですなア。私は感服しましたよ。しかし、驚きましたな。どうして、あなたが、もっと出世なさらなかったのだろう? 自分の欲する通りに、千円の物を十円に値をつけて、キチンと思い通りの計算をわりだすことがお出来になる。あなたは四角のものを円だと云って、そのワケをキチンと説明のできる方です。白いものを黒だと云って、そのワケをキチンと証明することもお出来になるに相違ありません。自分の欲する通りの計算がおできなのに、どうして一生貧乏なさったのでしょうね。梅村さん。そのワケがお分りですか。なぜ貧乏なさったか? 思いのままにキチンと計算ができながら、ね。そのワケは、こうです。あなたの計算は、あなただけしか通用しません。世間ではその計算が通らないのです。四角は常に四角。白は黒では有りえないのです」
「公式通りには、いきません。なぜなら、戦争ですから。一寸先はヤミ、ということを、あなたは忘れてらッしゃるのです」
「あなたは、又、一寸先はヤミ、というウマイ方式で単純に割りきって、手前勝手な言いくるめ方をあみだしていらッしゃいますよ。しかし、ねえ、それでは人生は身も蓋もありません。そうでしょう。たとえばですね。家を買う。戦争の時でなくッたって、その晩、火事で焼けるかも知れません。源泉を買う。地底の変化で突然源泉が出なくなるかも知れません。牛を買う。翌日死ぬかも知れません。それを理窟にして、五千円のものを、千円、五百円、タダにしろと云えますか。しかし、理窟としては、たしかにタダでも有りうるのです。なぜなら、買った日に、燃えたり死んだりするかも知れませんから、ね。あなた、その理窟をふりかざして、世渡りができるでしょうか」
「いえ。できますとも。あなたこそ、平時と戦時をゴッチャにして、計算をごまかしていらッしゃる。みんな別荘をすてて逃げている時代なのです。すべて物という物が無価値になりつつある時代なのです。あなたの計算が、手前勝手なのです」
亮作の眼は妖光を放ち、口はケイレンして泡をふいた。気違いじみた確信だ。
野口はあせらずに、論争の焦点をずらした。
「私は、こう考えますよ。日本が亡び、人間が死滅するのでない以上、戦争の終ったあとで、私たちの希望のよりどころになるものは、私たちの所有している物だろうと思います。何も所有していなかったら、こんな悲しいことはありません。月給だの食糧だのを与えてくれる機関や秩序があるかどうか、見当もつきませんからね。無一物なら、むかしの野武士のように、強盗でもして生きる以外に手はないでしょう。あなたの年では、強盗もできません。笑いごとではありませんよ。日本人は誰にせよそんな不安を感じているにきまっています。そのときに、田畑や源泉を所有しているということ、群盗横行しても、田畑や源泉は盗まれませんよ。この悲惨な戦争の最中も、田畑や源泉を所有していることが生きがいになりゃしませんか。この家だって、必ず戦禍にやられるとはきまっていません。戦禍にやられるかも知れないということは、やられないかも知れない、ということです。人間は夢を持たなきゃいけません。夢をもてば、たのしいものですよ。しかし、私は、夢に値段をつけようとは云いません。この田畑と源泉が五千円です。六千坪あります。一坪一円にも当らないではありませんか。失礼ながら、あなたの生涯に、もしも戦争がなければ、六千坪の田畑と源泉を所有することなど、夢にも有り得なかったでしょう。人も羨む源泉ですよ。ただ少数の階級だけが所有し得たゼイタク物ですよ。もう、これ以上は申しません。あなたの運を御自由にお選び下さい。五千円なら売ります。おイヤでしたら、やめましょう」
亮作は肌身放さぬ包みの中に七千余円もっていた。これは彼が主として野口に使われてからの五ヵ年間にためたものだ。万事が配給の時世となって、いくらも生活費がかからず、信子と克子は大伯母からの仕送りで別個にくらすようにもなったから急速にたくわえが出来たのである。
彼は孤独の行く末を何より怖れていた。怖れの根本は、無一物というところから来ているのである。自分に才のないことも骨身に徹している。そして、年もすでに五十である。そして、無一物である。
彼はこの別荘をどうしても買いたい気持になっていた。家も田畑も、源泉までも所有しているとは、なんてすばらしいことだろう。このドンヅマリの家だけは戦禍をまぬがれるかも知れないし本当にまぬがれるような気もするのである。
たとえ家はやられても、この田畑さえあれば、安穏な老後が送れる。
彼が金をもたなければ、どうしてもこの別荘を買いたいために、泥棒したいと思ったかも知れない。あいにく彼は買えるだけの金を持っていたので、金をだすのがイヤであった。だまされ、ぬすまれるような淋しさがあった。
だが、それにしても、家と田畑と源泉を所有することが、悪かろうとは思われない。自分がそんな身分になろうなどとは、考えられないほどだった。天にも昇る期待がこみあげる。すばらしい人生。すばらしい戦争。
彼はクシャクシャ泣きそうな顔に、にえきらない笑いをうかべて、
「じゃア、二千円で買いましょう」
「何を仰有るのです。私だって疎開を急がなければ、こんな捨値で売りやしませんよ。今どき、五千円ポッチで何が買えますか。あなたのように、家も土地も所有したことのない方に、こんな話をしたのがマチガイでした。私も長い辛酸のあげくに、ようやく念願を果したこの別荘です。ハシタ金で、ボートクを加えるほどなら、火をかけて燃した方がマシですとも」
「ボートクじゃないのです。私はお金がないのです」
「じゃア、およしなさい。お金がなければ、話になりません」
「じゃア、三千円で手をうちましょう」
「誰が手をうつのですか」
「私はそれしかお金がないのです」
「ですから、お金がなければ、お止しなさい」
「あなたは卑怯です」
「なぜ」
「私のような鶏小屋の住人に売買の話をもちだす以上、私のもてる限度に於て取引に応じて下さるのが当然でしょう」
「私はあなたとは論争しません。あなたが弁護士でしたら、殺人犯人がどんなに喜ぶか知れませんよ。泥棒や詐欺は正業という結論になったでしょうよ。債権者は罪人になります」
「私をからかうために、この売買の話をもちかけたのですね。それでしたら、あなたは本当に罪人ですとも」
「あなたに善人とよばれるよりは、罪人とよばれることを喜びますよ」
「あなたは私をぬか喜びさせ、期待にふるえる思いをさせて、ドン底へ突き落したのです。希望をもたなかったうちは、私は鶏小屋の生活に安住することができたでしょう。こんなふうに、いっぺん空へ抱き上げて、突き落されては、私はもう平静な心境を失いました。私は絶望させられたのです。手足を折られた上に、さア働いて生きて行け、と突き放されたようなものです。私をどうして下さるのですか」
「私は何もしませんよ。この土地と建物を売って、軽井沢へひきあげるだけです」
「じゃア、二千五百円で、土地の半分と、建物の半分と、源泉の半分を売って下さい」
「あと半分の買い手を探していらしたらね」
亮作は顔をしかめて、手放しで、ポロポロとなきだした。
「私は悲しい思いを忘れていました。悲しい思いを忘れずに、どうして鶏小屋に生きられましょう。必死に努力したのです。そして、どうやら、ウジムシのような生活にもなれることができたのです。恥も外聞も忘れで、希望もなく生きる心境をつくることができたのです。それが私の全財産でした。あなたは私の全財産をうばい去ったのです。そして忘れていた悲しさを、いや、もっと大きな悲しさを私の胸に叩きこんだのです。まるで火の玉のように、私のからだの中を悲しさがころげまわり、走り狂っています。三月十日のあの怖しい空襲の火の舌が、私の背を焼き、追いつめてくるではありませんか。私はどうしたらいいのです。三月十日の空襲よりも、もっと怖しい艦砲射撃が耳の底に鳴っています。空という空に火の線が走って、山はゆれ、岩は砕け、大地はわれて、火をふきあげるではありませんか。私はすべてに見すてられました。もう歩く力もないのです。私はどうしたらいいのですか」
亮作の喉にクックックッとこみあげる音がして、にわかにヒッと泣きふしてしまった。
野口はなんとなく哀れに思い、三千円だと引越しのツケトドケにしかならないが、どうせ戦禍に消え失せるもの、捨てるよりは三千円で売った方がマシだろうと思った。
けれども一皮むいて考えると、同情してみたって始らない。戦争というこの冷酷な魔神の通路には、ただ運命があるだけで、誰だって自分の意志でそれを逃れることはできない。自分自身が一時間後にどんな運命になるか、誰も知ってやしない。人に同情するなどとは身の程をわきまえぬ愚行であろう。
「なに、ここだけが戦場になるわけじゃありませんよ。おそかれ、早かれ、日本中がそうなるのです。私は、高いとか安いとか選り好みできるあなたの境遇がうらやましいと思ってますよ」
「じゃア、死ぬる思いですが、思いきって、四千円だします。四千円で売って下さい」
「いえ、いけません。五千円。最低の値をつけたのです。私は商売をしているわけではありません。五千円という捨て値は、まったくの捨て値で、損得勘定の根拠があるわけではありません。ひとつの気分でヒョイときめた捨て値です。愛着のこもったものを捨て去るときの悲しさをいたわってくれるものは気分だけです。私は気分をこわすわけにいきません。商取引のように、値切られたり、まけたりするわけにいかないのです」
亮作は気違いじみた泣き顔をあげて野口を見つめた。ちょッとオドオドしてはいたが、いつもするような薄笑いの翳はなかった。
「五千円で買ったら、あなたは今日中に立退きますか。いえ、今日中に立退いて下さい」
「今日中はムリですよ。
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