シャクリあげるが、クチビルをかみしめて身支度をととのえなおす。
「克子をいじめて、おたのしいのですか」
信子のカン高い叫びが彼を突きさす。
彼は無言である。
「克子を泣かせて、縁起でもない。これから徴用の職場へ出勤という克子を。女子の徴用は男子の出征と同じですよ。一匹のイワシを食べるぐらいが、何様を軽蔑することになるんですって! 私だってイワシよりも棺桶屋を軽蔑しますよ。たかが一匹のイワシをたべるにも高尚な理窟がいるんですか。私は理窟ぬきに棺桶屋を軽蔑したいもんですよ。たかが一匹で意地汚いとは、おお、イヤだこと。意地汚いのは、あなたですよ。一匹のイワシを娘に食べさせるのも惜しいんですね。この御飯は、克子のために、田舎の大伯母さまが届けて下さるお米ですよ。あなたは、それを食べているではありませんか」
亮作は無言であった。克子は勝ち誇るために泣いているが、彼は泣くこともできない。
彼も立上って出勤の支度をはじめる。彼はイワシを投げすてた克子のように、お弁当の御飯を投げすてることはできない。
戦争に負けるか勝つかということも、この苦しみから遁れられるか遁れられないかということよりは重大に見えないのである。
本と鶏小屋
亮作は皇軍勝利確信派であったが、信子と克子は敗北確信派であった。
サイパン戦況不利の報に、母と子はいち早く荷物の疎開をはじめた。
信子が着古した衣類をせっせと荷造りしているのを見て、克子が言う。
「そんなもの、持ってって、どうするのよ」
「これだって、まだ着れますよ。あなたのためにもさ。いずれ役に立ちますよ」
「私、そんなもの、着やしない」
娘は目を白くして、舌打ちした。
「衣裳道楽の大伯母さまが、一生かかっておあつめになった美術品のような衣類を、そっくり私に下さるというのに。そんなもの、女中だって着やしない」
「モッタイないことを言うんじゃありませんよ。これはみんな私がお嫁入りのとき、持ってきた物なのよ。それをアレコレ工夫して、一生着こなしたんですから、なつかしいのよ。あなたのお父さんに着物を買っていただいたことなんて、一度もありません」
娘は母の感傷などに一顧を与えた様子もなかった。しかし父への軽蔑は新にしたようであった。
「それ、ほんと。お嫁入りして今までに?」
「ほんとですとも」
「ほんとかしら。お嫁入りして今までッて云えば、私の年よりも多いわけだわね」
「あたりまえよ」
「フウン。グズだわね」
母の無言は同意をあらわしているのである。
戦時の夜は静かであった。二人の会話はグズの耳に筒ぬけにきこえた。
亮作は検定試験をうけて、中等教員になろうと思っていた。小学校の教員になると、ただちに受験準備をはじめたのである。彼の乏しい給料は概ねそのために費された。歴史と地理を志し、後に国漢も受けたが、何度やってもダメであった。
信子も亮作が小学教師で終らぬことを信じた上で結婚した。中等教員はおろか、その上の試験にもパスして、教授、学者になるかも知れないと思っていた。仲人の口もあったが、書籍の山にうずもれた彼の書斎の風姿に接したときに、なんとなくそう信じたのである。
三十前後までは、彼への世間の信用も大きかった。学識深遠、小学教師などで終るべき凡庸の徒ではない、というのである。人々は彼を仰ぎ見た。
四十前後には、完全にその逆であった。同じ人間が、同じ土地で、目立って変った生活はひとつもしていないのに、こんなに世評がひッくりかえるということは、信じられないようであった。しかし世間は彼を遇するに、ひところはそのように甘く、そして後には冷めたかった。
彼に憐れみを寄せる人もなかった。軽蔑と嘲罵が全部であった。
学務委員はそれが父兄全体の声でもあると云って、彼が全然見込みのない受験のために、当面の教育をないがしろにしていることを校長につめよるのである。
校長は彼のために弁護しなかった。
「まったく、あの人物には困りましたよ。よそへ廻したくても、どこの校長も引きとってくれません。まだしも代用教員を使う方がマシだと言いましてね」
「そんなことを云って、大事な子供をまかせておく我々はどうなるのかね」
「今になんとかしますが、本人にも言いきかせますから、辛抱して下さい」
そのたびに彼は校長室によびつけられ、学務委員や有力者の家を謝罪して廻らねばならなかった。
そして彼の月給は、いつまでたっても、ほとんど初任給に近かった。彼は十の余も若い人たちに追いぬかれ、新学期のたびに、彼の級をひきついだ若い教師に、彼の一年間の教育がなっていないことを罵倒されるのであった。
信子は、大伯母の援助がなければあなたを道づれに自殺したろうと克子に言いきかせるのであった。
信子の母の姉、克子には大伯母に当る人が富裕な人と結婚し、わがままな生涯を送っていたが、ツレアイも死に、アトトリもなかった。このわがままな年寄が、克子を養女の筆頭に選んだのである。
信子はひとり児を養女にだすことに、反対の理由を知らなかった。梅村亮作の家名の如きは、絶えることが世のため人のためである。その家名には恥と貧窮と、悲しみと嘆きがつきまとっているだけだ。咒《のろ》いによって充たされているだけである。梅村亮作の恥辱まみれの一生は、彼ひとりでしめくくるのが当然であった。
大伯母からは克子の教育費が送られ、克子は女子大学へ進んだ。亮作が世間からうけた冷遇も、大伯母のそれに比べれば、あまいものであった。大伯母の彼に対する感情は憎悪であった。全人格を無視し、否定し、刺殺していた。
克子は休暇のたびに、母と一しょに大伯母のもとで暮すようになったが、亮作は門前にたたずむことも許されていなかった。そして克子の休暇中は、彼は自炊して出勤しなければならなかったが、恥辱という苦痛がなければ、一人暮しの不自由も苦しいというものではなかった。
克子の教育費は、亮作を含めた生計費に用いることを禁ぜられ、信子もその禁令を堅く守っていたが、戦争がはげしくなり克子への食糧が大伯母から届けられるようになると、そのもの自体の恩恵に浴することは稀れであっても、配給の食糧をかなり豊富にとることができて、亮作も間接の恩恵に浴することができた。
母と娘は、夜毎に疎開の荷造りをしていた。荷物の送り先は、もちろん大伯母のもとであり、亮作の品物がその荷造りから一切はぶかれていたことは言うまでもなかった。
彼女らの荷物を送りだしても、炊事道具やチャブダイは亮作に属していたので、三人の生活は不自由はなかった。
二人は亮作に荷物の疎開をすすめなかった。彼女らの生活が不自由になるせいもあったが、亮作の品物などは一切煙と化したところで惜しくはなかったからである。
二人の荷物が発送されると、空間のひろがりが目立った。それが目にしみると、亮作も疎開ということを考えた。せめて本だけは、と考える。それだけが彼の足跡だった。本が焼かれることを思うと、自分が焼かれるような苦痛を覚える。
わずかな月給から買いだめた蔵書が二十何年のうちに二千冊余になっていた。
「なア、信子や。この本だけでも大伯母さんに預ってもらえないかな」
信子はあきれて、溜息をつくのであった。
「なにを言うんでしょうね。あなたは。よくも、まア、羞しげもなく、そんなことを。私はB29[#「29」は縦中横]に依頼して、この本だけは焼き払ってもらいたいと思っていますよ。考えてもごらんなさいよ。この本のおかげで、私は一生を棒にふったようなものよ。どんなに泣かされたか知れません。あなたは、よくも、まア、ガラクタ本を焼き払う気にならないものですね。人を散々泣かせて、三文の得にもならないどころか、笑いものになったばかしじゃありませんか。この本の一冊ごとに、あなたが低脳だという刻印が捺してあるのですよ。低脳の証拠を毎日眺めて平気でいられるのがフシギですよ。どこまで低脳だか、分りゃしない。私や克子がともかく生きていられたのは、大伯母さまのおかげです。さもなければ、本のために母子心中していますとも」
信子の偽らぬ気持であった。克子にはきき古りた愚痴である。これをきかされるために生れてきたかのように、ウンザリさせられてもいる。信子の語気は激しかったが、克子の耳には陳腐なクリゴトで、なんの興もそそられなかった。
「お父さんは、どこへ疎開するの」
克子がきいた。
皮肉な思いは含まれていない。同じところへ父が疎開するはずのないこと、そして、それが当然であることを信じているだけの話であった。父の行先に、ちょッと興味があるだけである。
「疎開する所があるものですか」
信子の攻撃がつづく。
亮作はちょッと首をすくめて、困惑した薄笑いをうかべた。
「どこへ行く必要もないがね。そろそろ皇軍の総反撃のはじまるころだ。今ごろ、はじまっているかも知れん。敵さんの物力で半永久的な飛行場をつくらせてから、とりかえす。すこし手がかかるが、物量を節約するには、こんなこともせにゃならん。作戦は計画通りいっとる」
日本の反撃は亮作の反撃であった。彼の顔色は、ちょッと得意にかがやく。これが彼の為しうる唯一の執拗な反撃であり、仕返しなのである。
克子はそんな子供じみた仕返しに興味がなかった。
「じゃア、疎開しないの?」
自分の興味だけ追求する。
「疎開するところがないからなのよ。負け惜しみッてことが分らないのかね」
「いいじゃないの。きいてみたって」
「きくだけ、ヤボよ」
「でも、ききたいわね」
「きいて、どうするのね」
「この本の保管托されてさ。なんの役にも立たなかったガラクタだなんて、その人知らないわね。おもしろいじゃないの」
亮作は亀の甲から首をだす。
「人間には夢が必要だ。夢を持たなきゃ生きられない。三文の値打もないと分っていても、夢に托して生きる。お前さん方には、わからない。戦争が終って、私と本が又一しょに暮すようになる。時世が変って、私のような老書生も試験にパスして、新時代に返り咲くかも知れない。バカらしくとも、夢に托して生きて行くのがカンジンさ」
「なんだ、つまんない」
克子は即座にうちけした。
「戦争が終ってから試験にパスしたって、もう停年の年齢じゃないのよ。どこにも夢なんて、ありゃしない」
「克子は夢がないのかね」
亮作の言葉は穏やかであったが、例の弱々しく執念深い抵抗が、すくんだと見せて小さなカマクビをもたげているのである。
克子は軽く舌打して、その小さなカマクビを払い落した。
「軽蔑されるの、当然だわね。私たちの年齢に夢がない人あって? お父さんの年齢で、試験にパスする夢なんて、よくよくだわね。再来年は、私でも中等教員の免状もらえるのにね。中等教員になりたいなんて、思いもしないけどね」
克子の述懐に底意はなかったようだが、亮作のカマクビはうち砕かれて、抵抗も言葉も失ってしまった。
どうしても本だけは疎開しようと亮作は思った。それだけが二人の女に抵抗する手段のように思われた。本に対するやみがたい愛惜もたしかであった。
ひねもす本のことだけが気にかかる。
「社長におねがいがあるのですが」
と、亮作は野口にたのんだ。
「実は、疎開のことですが」
「疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?」
「いえ、それがね」
「奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい」
「ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから」
亮作は家庭の不和を隠していた。誰にも知られたくなかったのである。
「遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ」
「実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが」
思いがけない申出に、野口の微笑が一時に消
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