盗もできません。笑いごとではありませんよ。日本人は誰にせよそんな不安を感じているにきまっています。そのときに、田畑や源泉を所有しているということ、群盗横行しても、田畑や源泉は盗まれませんよ。この悲惨な戦争の最中も、田畑や源泉を所有していることが生きがいになりゃしませんか。この家だって、必ず戦禍にやられるとはきまっていません。戦禍にやられるかも知れないということは、やられないかも知れない、ということです。人間は夢を持たなきゃいけません。夢をもてば、たのしいものですよ。しかし、私は、夢に値段をつけようとは云いません。この田畑と源泉が五千円です。六千坪あります。一坪一円にも当らないではありませんか。失礼ながら、あなたの生涯に、もしも戦争がなければ、六千坪の田畑と源泉を所有することなど、夢にも有り得なかったでしょう。人も羨む源泉ですよ。ただ少数の階級だけが所有し得たゼイタク物ですよ。もう、これ以上は申しません。あなたの運を御自由にお選び下さい。五千円なら売ります。おイヤでしたら、やめましょう」
 亮作は肌身放さぬ包みの中に七千余円もっていた。これは彼が主として野口に使われてからの五ヵ年間にためたものだ。万事が配給の時世となって、いくらも生活費がかからず、信子と克子は大伯母からの仕送りで別個にくらすようにもなったから急速にたくわえが出来たのである。
 彼は孤独の行く末を何より怖れていた。怖れの根本は、無一物というところから来ているのである。自分に才のないことも骨身に徹している。そして、年もすでに五十である。そして、無一物である。
 彼はこの別荘をどうしても買いたい気持になっていた。家も田畑も、源泉までも所有しているとは、なんてすばらしいことだろう。このドンヅマリの家だけは戦禍をまぬがれるかも知れないし本当にまぬがれるような気もするのである。
 たとえ家はやられても、この田畑さえあれば、安穏な老後が送れる。
 彼が金をもたなければ、どうしてもこの別荘を買いたいために、泥棒したいと思ったかも知れない。あいにく彼は買えるだけの金を持っていたので、金をだすのがイヤであった。だまされ、ぬすまれるような淋しさがあった。
 だが、それにしても、家と田畑と源泉を所有することが、悪かろうとは思われない。自分がそんな身分になろうなどとは、考えられないほどだった。天にも昇る期待がこみあげる。すばらしい人生。すばらしい戦争。
 彼はクシャクシャ泣きそうな顔に、にえきらない笑いをうかべて、
「じゃア、二千円で買いましょう」
「何を仰有るのです。私だって疎開を急がなければ、こんな捨値で売りやしませんよ。今どき、五千円ポッチで何が買えますか。あなたのように、家も土地も所有したことのない方に、こんな話をしたのがマチガイでした。私も長い辛酸のあげくに、ようやく念願を果したこの別荘です。ハシタ金で、ボートクを加えるほどなら、火をかけて燃した方がマシですとも」
「ボートクじゃないのです。私はお金がないのです」
「じゃア、およしなさい。お金がなければ、話になりません」
「じゃア、三千円で手をうちましょう」
「誰が手をうつのですか」
「私はそれしかお金がないのです」
「ですから、お金がなければ、お止しなさい」
「あなたは卑怯です」
「なぜ」
「私のような鶏小屋の住人に売買の話をもちだす以上、私のもてる限度に於て取引に応じて下さるのが当然でしょう」
「私はあなたとは論争しません。あなたが弁護士でしたら、殺人犯人がどんなに喜ぶか知れませんよ。泥棒や詐欺は正業という結論になったでしょうよ。債権者は罪人になります」
「私をからかうために、この売買の話をもちかけたのですね。それでしたら、あなたは本当に罪人ですとも」
「あなたに善人とよばれるよりは、罪人とよばれることを喜びますよ」
「あなたは私をぬか喜びさせ、期待にふるえる思いをさせて、ドン底へ突き落したのです。希望をもたなかったうちは、私は鶏小屋の生活に安住することができたでしょう。こんなふうに、いっぺん空へ抱き上げて、突き落されては、私はもう平静な心境を失いました。私は絶望させられたのです。手足を折られた上に、さア働いて生きて行け、と突き放されたようなものです。私をどうして下さるのですか」
「私は何もしませんよ。この土地と建物を売って、軽井沢へひきあげるだけです」
「じゃア、二千五百円で、土地の半分と、建物の半分と、源泉の半分を売って下さい」
「あと半分の買い手を探していらしたらね」
 亮作は顔をしかめて、手放しで、ポロポロとなきだした。
「私は悲しい思いを忘れていました。悲しい思いを忘れずに、どうして鶏小屋に生きられましょう。必死に努力したのです。そして、どうやら、ウジムシのような生活にもなれることができたのです。恥も外聞も忘れで、
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