れは長年月納屋の奥に置きすてられた廃品で、峠越えの疎開用には役立たないシロモノであった。金時はかねて目をつけていたのである。修繕すればまだ使えると亮作に教えた。疎開騒ぎで値のでているのは大八車が筆頭だったが、これは法外に安かった。それでも、大八車が結局最高値の買い物であった。買った品々は車いっぱいになってしまった。
「お前、酒すきか」
「うむ。酒が買えるのか」
「オレが造ってやる」
金時は徳利と杯を買い、瓶を二つ買った。亮作は、なんともいえない有難さがこみあげた。天に向って感謝したい思いであった。
「お前も酒すきか」
「オレはのまん。オレは腹いっぱい食うのが好きだ」
最後に魚釣りの道具一式買った。
「畑はオレが一人でする。お前は用がないから、退屈したら、魚釣っとれ」
「そうか。釣れるか」
「釣れるだろう。イヤなら、やめれ」
「やってみる」
やがて、終戦がきた。
亮作はこのような幸福を夢にも描いていなかった。彼は大八車いっぱいの荷物と金時と共に穴ボコの中に生き残り、廃墟へもどって、いち早く耕作して、生活の安定をはかることを希望していた。それだけでも充分に希望を托しうる未来であった。しかるに家も畑も残ったのである。
亮作は毎日街を歩きまわった。落付いて坐っていることができなかった。家と田畑と源泉の所有者だという実感が、孤独な部屋の物思いでは、とらえがたかったからである。ハッとして気がつくと、思わずポロポロと泣いたが、それが所有者の満足だとも思われない。そして急いで街へでる。日ごとに街を歩きまわった。
単調な戦争中には見られなかった小さな変化が街の諸方に起っている。亮作はそれらをツブサに目にいれた。
それは亮作とは何の関係もない変化であった。所有者になったという自覚を与えてくれるものは、ひとつもなかった。それでも、彼には、なつかしいのだ。小さな変化を見るたびに泌々《しみじみ》と目にしみる。心があたたかくなるのであった。
彼はある晩、表札をださなければならないと思った。
彼はその時まで表札をだしていなかった。手紙のくる筈がなかったし、もらいたい手紙はひとつもなかった。あらゆる過去に愛着を失っていた。梅村亮作は死んでいる。ひとつ、新しい別人の表札をだしてやろう、そう考えると、こみあげる愉快な思いにたまらなくなった。
彼は窓を開け放して、澄んだ夜空を仰ぎなが
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