せん。どこに伊東の町があったか、見当もつかないでしょう。あなたの地所が川か沼にならなければ幸せというものですな。温泉町として復活するにも二十年はかかるでしょう。そのころは、私は死んでいるでしょうな」
 亮作は、また、残酷に笑った。
「すると、日本は亡国ですな」
 野口はやりかえした。
「すべてを失った後に於て、日本は勝ちます。太古にかえり、太虚に至って、新世界の黎明が現れます。日本は太虚であり、太陽であり、新世界の盟主です。記紀に予言されたところであり、歴史的必然です」
「そうあって欲しいものですよ。ところで、梅村さん。穴の中に隠れてくらすにしても、人間は何か食わずには生きられませんよ。穴の中の生活に配給はありませんぜ。自分の畑がなくて、あなた、どうなさる。この畑には、鶏小屋も鶏も附属していますぜ。日本の現状に於ては、まさに王侯じゃないですか。第一、私がこの別荘を人に売ったら、あなたは鶏小屋を追われます。あなたの身柄までひッくるめて、買ってくれる人はいませんからなア」
 それは亮作に何より痛いところであった。もしも、買い手がつけば、亮作が追んだされるのは、まぬがれがたいところだろう。
 しかし亮作はひるまなかった。
「ええ、どうぞ。買い手を探して下さい。私に遠慮はいりません。ひさしく寄席も芝居も見ませんが、この家を一万円で買った人間の顔を、見るのを、笑いおさめに、鶏小屋から立ち去ることに致しましょう」
 一万円はまずかったな、と野口は思った。露店のセリの要領で、まず一万と値をつけたが、たしかに高すぎた。この値では買い手がない。追い立てをくう不安がないから、亮作はつけこんで、いきまいている。
「ほんとに、人に売ってもいいのですね」
 野口の顔色が、ちょッと変った。
「ええ、ええ。どうぞ。ひさしく笑うことを忘れていましたから」
「五千円なら買いたいという人があるんですが、おことわりしたんです。しかし、私も、金と命をひきかえるのはイヤですから、値ぎられるよりも、時間のちぢまる方が、なお怖いですよ。あなたは売り別荘続出で、買い手がないとタカをくくってらッしゃるようですが、大戦争の生きるか死ぬかの瀬戸際にも思惑をはる商売人がいるもんですよ。私も、つくづく、呆れました。別荘を買い漁っている人種がいるのです」
「それに似た話はきいております。しかし、私のきいたのは、買い漁ってと云
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