い言いぐさを信用していたし、それまでの空襲の被害が少いので、タカをくくって、防空壕もつくらなかった。もっとも、彼の住むあたりは、土を掘ると水がわくので、手軽に防空壕もつくれなかった。
 亮作は家財を一物も助けることが不可能であった。それでも命の助かったのがフシギなくらいであった。
 この夜の空襲は、敵機が投弾を開始して諸方に火の手があがってから、ようやく空襲警報がでた始末で、亮作が身支度を終らぬうちに、バクダンの凄い落下音がせまりはじめた。それでも彼はまだ空襲の怖しさを知らなかったので、身支度だけは終ることができたし、現金の小さな包みを腹にまきつけることも出来たのである。
 外へでると、火の手がせまっていた。目の前が、まッかなのだ。焼けた烈風が地を舐めて走り、いきなり顔を熱のかたまりがたたきつけた。彼は悲鳴をあげて、とびあがった。風下へ夢中に泣いて走っていた。
 彼は逃げた道順がまったく分らない。逃げ足が早かったので助かったのである。常に火に追われ、火にさえぎられて、とめどなく、逃げまどっていただけだ。そして逃げのびる先々に、彼に安全感を与えるだけの堅牢な建物や防空壕や広い公園などのなかったことが、彼を助けてくれたのである。
 それほどの長距離を走った自覚がないのに、彼は海岸にたたずんでいた。そして夜明けをむかえたのである。
 わが家の跡には何もなかった。くずれた瓦礫の下に、書物の原形をそっくりとどめた灰もあった。みんな燃え失せたのだ。まだ東京には多くの家が残っているし、さらに多くの家が日本の各地には有るけれども、彼の住む家はもうどこにもない。
 たった半日に、彼は無数の焼けた屍体を見た。見飽いて、立ちどまる気持も起らない。しかし、わが家の焼跡を見ると、悲しさがこみあげて、涙がとめどなくあふれた。そのあたりの路上や防空壕にも黒こげの屍体がころがっていたが、各々の焼跡に立っているのは、彼だけであった。
 野口の自宅も工場も焼けていた。焼跡へ行ってみると、野口夫妻と子供たちが、墓の中から出て来たように、顔も手足も泥まみれに、かたまっていた。
 みんなおし黙ってニコリともせず彼をむかえた。
「みんな焼けましたよ」
 野口はつぶやいた。何も言いたくない、というような、不キゲンな声だった。
「私もみんな焼きました。残ったのは、私の着ているものだけです」
「命が助かっただけ、し
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