をつけるためではない。蝶々はこの程度のキズをおぎなって余りある華麗な相つぐトリックの妙味にあふれているのだ。
 ただ日本の新人作家の作品には、このキズに類する不合理、トリックの不備があまりに目立ちすぎるからである。あまりに仕掛けを弄しすぎる、仕掛けを弄する必然性がなく、仕掛けを弄するだけ、それによって危険に身をさらしていることになるのだが、その計算を全然忘れている。そんなマヌケな犯人がいるものではない。
 すべてトリックには必然性がなければならぬ。いかに危険を犯しても、その仕掛けを怠っては、犯行を見ぬかれる、というギリギリの理由があって、仕掛けに工夫を弄するという性質でなければならぬ。
「アクロイド殺し」はアリバイをつくるために蓄音機を使い、それを取りもどす危険を冒す必要があった。そしてその仕掛けに要したちょッとの時間、五分ほどの差によって、トリックを見破られてしまうのである。トリックには常にかかる危険がある。それを承知で敢てせざるを得ぬ必然性がなければナンセンスで、謎ときゲームの合理性に失格しているのである。
 推理小説は、主要人物が富豪とか、政治家、女優、大選手など有名人ばかりで、無産者が殺されるというような例は少い。そこで、推理小説は有閑階級の玩弄物にすぎないなどというのは一知半解の見解で、だいたい犯罪の動機は色と慾で、貧乏人が被害者だと、動機が少くなり、限定される。謎の幅が少くなって、謎ときゲームに必要な複雑な綾が少くなってしまうのである。謎を複雑にするには、どうしても身辺に謎の多い人物、色々な角度からカカリアイの多い人物を主人公に仕立てる必要があるのである。多くの角度から殺される可能性のある人物を被害者に仕立てなければならない。
 だから推理小説というと、ヤタラに大きな邸宅の見取図などが出てくるものだが、邸宅が大きいというところにも謎をふせる要素があるわけだが、それが主たるものではなく、第一の目的は、そういう邸宅に住むような階級でないと、推理小説の謎を複雑に仕組むことができないという要求によるものだ。
 又、推理小説は、広い地域を舞台にすると、その舞台の地域に通じない読者の興味を半減する。たとえば「三幕の悲劇」では、フランスのある町からある町の距離、南北に遠く離れて、一日に往復しうるや否や、というところに推理の鍵があるのだが、地理的条件と、交通機関の条件に
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