ら》で伊豆がやうやう追ひつくと、急にぽつんと零《こぼ》すやうな冷淡さで、「君も行くかね?」「いや」伊豆はがくんと首を振つた。「今日は胸が苦しくてとても呑めない」「さう」小笠原は蔑むやうに頷いたが、「さう、かね。ぢや、さよなら」。其処はまだ別れる場所ではなかつたが、伊豆は斯う言はれたので咄嗟に歩速を緩めた。遣る瀬ない空虚を感じた。伊豆は力の尽き果てた様子で小笠原の後姿をぼんやり見送つてゐたが、軈てのことに我に返つて、不思議に自分はあの冷酷な小笠原を寧ろ一種の親しみをもつて見送らうとしてゐるのに気付いた。いはば小笠原を親愛な一味徒党のやうに思ひ込まうとするのである。その理由に就てはなぜか伊豆自身深く追求することを避けたがる様子であつたが、つまりは小笠原も痴川の死を欲しており、且又自分に痴川の殺害を実行させやうと企らんでゐる、といふ風に考へたかつたのであらう。だが、伊豆の推量は勿論当にならない。誰しも二人の敵を打つよりは一人味方に思ひ込む方が気が楽でゐられる。そして伊豆も現在自分の心底にこの傾向のあることを感じ、あまり諸事を掘り下げすぎて自分の馬脚を発見したくなかつたので、故意に全てを漠然の中に据ゑたまま、とにかく小笠原は自分の親愛な同志であるやうに感じた。伊豆は小笠原の暗示したところのものを万事深く呑み込んだといふ形に、ふむふむと大袈裟に頷き、快心の小皺を鼻に刻んで上機嫌に帰宅した。
小笠原は其の持ち前の物静かな足取で黄昏に泌り乍ら歩いてゐたが、やがて、伊豆の心に起つた全ての心理を隈なく想像することができた。彼は自分が殆んど悪魔の底意地の悪るさで痴川伊豆の葛藤を血みどろの終局へ追ひやらうとしてゐる冷酷な潜在意識を読んだ。併し驚きも周章《あわ》てもしなかつた。永遠に塗りつぶされた唯一色の暗夜を独り行くやうな劇しい屈託を感じたのである。全て波瀾曲折も無限の薄明にとざされて見え、止み難い退屈を驚かす何物も予想することができなかつた。彼は冷静な心で、恐らく自分は悪魔であるかも知れないと肯定し、そして洋々たる倦怠を覚えずにゐられなかつた。
麻油は伊豆をかなり厭がつてゐた。その伊豆がとある白昼麻油の家へ上り込んできて、懐手をして無表情な顔付で突立つてゐたが急に手を抜き出して其れをふらふら振り乍ら麻油にねちねちと抱きついて来たので、何をするかと思ふてゐると、先づ麻油の頸から胸のあたりへ手をやりもそもそ手探りしてのち、漸く其の襟を握つて首を絞めはじめたのである。麻油は驚いた。が、非力な伊豆をいつぺんに跳ね返すと、あべこべに伊豆の首筋を執《とら》へて有無を言はさず絞めつけた。伊豆はばたばた※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いて危く悶絶するところまでいつた。麻油が余りの呆気なさに呆れ乍ら手を離しても、暫くのうちは仰向けに倒れたまま尚も絞められてゐるやうに自分一人で※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いてゐたが、やうやう立ち上り、のろのろと向きを変へて、座敷の真ん中で四這ひになると、やがて白つぽい嘔吐《へど》を吐き下した。余程苦しいものと見え、数分の間犬の格巧をしたなりに身動きも出来ず、顔一面に泪を溢らせてゐた。
「なんだい、意気地なし。痴川が殺せないもんであたしを殺すことにしたの? 青瓢箪!」
麻油はさう叫んで冷笑した。
伊豆は返事をしなかつた。返事も出来ないほど苦しいらしく、尚も四這ひのまま首だけを擡げ、しよんぼりして※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]《しやっく》りしてゐた。
「今にみんな殺してしまふ」
伊豆は斯う言ひ残すと歩くにも困難の様子で戸口の方へふらついて行つたが、今度は下駄が探せないらしく、数分間ごそごそして漸く帰つて行つた。翌朝気付いてみると、麻油の草履や靴を正確に片方づつ溝へ投げ棄てて帰つたことが分つた。
すると翌日の真昼間又伊豆がふらふらやつて来た。黙つて這入つてきてきよとんと麻油を視凝めてゐたが、今度は余所見を繕ひまるで何処かへ行つてしまふやうな風をし乍らふらふら近づいてきて、麻油の頸を手探りし、やうやつと襟を握つて絞めはじめた。さうして麻油の頬つぺたを舐めたのである。麻油は劇しく跳ね返した。麻油は怒つた。非力の伊豆を仰向けに返すと、又しても悶絶に近づくまで絞めつけた。伊豆は手足をじたばたさせて口中から白い泡を吹いてゐたが、麻油が手を離してからも暫くあつぷあつぷしてゐて、おもむろに四這ひになると、部屋の中央へ白い嘔吐《へど》を吐き下した。
その日は直ぐ帰らうとはしなかつた。彼は愈々蒼白となつて、空気を舐めるやうな格巧をしながら胸苦しさを押へてゐるやうであつたが、やをら立ち上つて麻油の腰に縋りつくと、自分の方でずどんとぶつ倒れて、自分で麻油の下敷きになつた。そのくせ殆んど失心して身体全体を痙攣させ、今にも死ぬ人のやうにただ縋りついてゐたのであるが、それでも時々拳でもつて麻油の鳩尾のあたりを夢心持でこづいた。麻油は振り離して起き上つた。伊豆の奇妙な変態性欲が頷けたのである。麻油は失心したやうに目を閉ぢて動かない伊豆の姿を見下して、暫くの間ぢつと息を窺つてゐたが、やがて真白い肉付のいい二本の腕を忍ばすやうに静かに延すと、伊豆の頸を抑へて力強く絞めつけた。白い泡を吹いて、手足を殆んど力なげにじたばたさせて、併し懸命に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いてゐる伊豆の醜状に息を殺して見入り乍ら、麻油はふくよかな胸一杯にぴちぴちする緊張を覚え、春のやうに上気した軽快な満足を感じた。
或日孤踏夫人は小笠原から伊豆と痴川の曲折をきき、たわいもなく談笑してゐたが、小笠原が帰るのを見送つてしまふと、急に肩の落ちるやうな、ほつとした眩暈《めまい》がした。夫人はむづかしい顔付をして、小波《さざなみ》のやうにちらめきはじめた混乱にぼんやりしながら部屋へ戻り、肘掛椅子に深く身を埋めたが、自分はいつたい今迄何事をそんなに緊張してゐたのかしらと思つた。さう言へば、自分は痴川の死を希つてゐるのだと、分りすぎるほど分りきつたことをふと思ひ付いたやうな気がした。本当に、分りすぎるほど分りきつたといふ気がしたのである。成程、少くとも痴川との手切れを欲してゐる以上は死ほど決定的な解決はない筈だから痴川の死を希つてゐるのに相違ない。……そして、この恐ろしい考へがはつきり分つてきても、我ながら可笑しいほど夫人は狼狽しなかつた。寧ろ不思議な落付と安らかな憩ひを感じた。そして、まるで蒼空でも仰ぐやうに、小笠原の顔を眼蓋一杯に泛べたのである。夫人はその顔へ向つて、さう、あたしもさうよ、貴方と同じだわ、といふ風に媚るやうに微笑してみせたいやうだつた。あの人はあんなに落付いた風をして、何の表情も感情も表はさずに淡々と談笑して帰つたけれど、あたしには分る、やはり痴川の死を希つてゐるのだと、夫人は頭がくらくらした。さうとすれば、もしさうだとすると、あの方もあたしを愛してゐるに違ひない。――そして、なんだか寒いほど引き緊つた気持の中で、一斉に開かうとする花束のやうな、夥しい微笑がふくらみ、やがて静かな泪となつて溢れ出すのを感じた。
孤踏夫人の家を辞した小笠原は、彼も亦一時にほつと全身の弛むやうな思ひがしたが、静かな足取で暫く歩いてゐるうちに、孤踏夫人が陥つたに相違ない前記の心理を眼に見るやうに思ひ泛べた。そして精巧な策略を仕遂げた詐欺師のやうな落付いた満足を覚えたが、ふと自分に返ると、苦りきつた気持で、頭の中の映像を大急ぎで一切合切掃除するやうにした。彼は急に自分が厭になつた。自分が邪魔でやりきれなくなつたのである。まるで煩《うるさ》い他人のやうに其処いらに煩い自分がふさがつてゐて、厭らしくてうんざりした。考へてみると、自分といふ奴は全く行き当りばつたりに思ひも寄らないことばかりして、伊豆に会へばそれとなく自分も痴川を憎んでゐるやうに暗示してしまつたり、孤踏夫人に会へば自分は夫人をさも思ひ込んでゐるやうに暗示したりしてしまふのであるが、現実の自分は、成程その思ひは幾分あるにしても、決してそれを一途に思ひ込んでゐるわけでない。それどころか、一途に思ひ込んだものといへば、実は何一つ無いのであつて、考へてみるに、現在ばかりの話でなく過去の一生に於ても、嘗て自分は一途に思ひ込んだといふことが何一としてない。求むるところにのみ人の生存の生存らしいところもあるとすれば、彼は手もなく無存在といふべきもので――別にさういふ理窟からではないが、とにかく小笠原は自分がないやうな拠りどころない困惑を感じた。そのくせ、靄のやうにとりとめもなく、それでゐて変に頑強な行為がそこにあつて、それが苛立たしいほど饒舌なものに感じられ、煩らはしくてならなかつた。とにかく酒でも呑もうと思つた。
痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がしだした。をかしな話で、憎む理由はあつても悪るがることはない筈であるが、併し痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がした。若しも小笠原に友情を絶たれてしまふと、このさき生きてゆく世界がないやうな、大袈裟な心配が真に迫つて湧いてきて、始終小笠原の顔を見てゐないと不安で心細くて今にも消滅しさうな思ひがした。そのくせ会ふのも怖いやうであり変なやうでもあり足が進まないのであつた。ある晩のこと小笠原を訪ねるつもりで歩きだしたが、途中で気がひけて、ふいに思ひもよらず、これは一層会ひたくもない孤踏夫人を訪ねてしまふと、これは生憎不在であつた。方々彷徨つたあげくに、このまま帰宅してはどうにも引込みのつかない落漠たる思ひがたかまり、愈々小笠原を訪ねる決心を堅めると、こんどは決心の重圧に苦しめられて無性にやるせない癇癪を覚え、走るやうに夜道を歩いた。小笠原の住居はひつそりした高台のアパートで、もう辺りの寝静まつた時刻であるから、その街角へ現れて街燈の下へ辿りつくと、まるで自分が潤んだ灯に縋りついた守宮《やもり》ででもあるやうな頓狂な淋しさが湧いてきた。其処から仰ぐと三階の小笠原の部屋に明りが射してゐたので在宅と判じられたが、うつかりすると不在の孤踏夫人は此処にゐるかも知れないと思はれたので、ひどく二人に悪いやうな気のひけた思ひが乱れ、ぼんやりして街燈の下に佇んでゐたが、光のあるところでは何かの拍子に顔を見付けられても困るやうな不安もしてきて、今度はとある暗がりの土塀へ近寄つた。闇の中にぼんやりして三階の窓から洩れる薄い光芒を眺めてゐたら、やにはに水のやうな静かなものが流れてきて人を懐しむひたむきな心が油然と溢れてしまひ、なんだかわけが分らなくなつて二足三足するうちに、小つちやい門燈に寒々と照らし出された石の戸口をそつと押して身体が内側へ這入つてしまつた。石の廊下をコツコツ鳴らす跫音《あしおと》が際立たしく顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ飛び込んできて、その静かさがむやみに神経を刺戟したが、時々何処からとも知れない光が階段の途中あたりで顔に流れかかつてきて、だんだん気が遠くなるやうであつた。
部屋の扉をノックして、「ゐるかい?……」と言ふと、胸がめきめきするほど不安になりだしたくせに、中から返事もない瞬間にもう戸を押してしまつてゐた。間の悪い光が痴川の顔へ鈍く流れてきたが、眼を丸くして奥を見ると、机に向つて何かしてゐた小笠原が唯一人ぼんやりして振向いてゐた。
急に痴川はぼんやりした。ぼんやりして部屋へ這入つてゆくと、急に泪が溢れだした。それが途方もない塊のやうな泪で、喉がいつぺんに塞がつて、身体も折れ崩れるやうであつた。
「俺はなんて愚かな人間だか、自分でも呆れるばかりだ……」痴川は喉が通じるやうになると、がつかりして歎息した。彼はだんだん落付いてきた。さうすると、泪となつて自分自身が流れ去つてしまつたやうに、透明な肉体を感じてきた。「俺には自分のやることがまるで分つてゐないのだし、時々、これが自分だと思ふものが急に見当らなくなつたりして、本当にたよりなく寂しい思ひがする……」
小笠原は静かに頷いて、憂鬱な顔をして
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング