こうして私は精神科へ入院し、持続睡眠療法をうけ、一ヶ月間昏酔したが、目が覚めたとき、一夜ねたとしか思わなかった。科長の内村さんは、結局、東大の療法と同じことを、私が無意識に自宅に於て行っていたわけだろうと、笑った。
昏睡からさめて後、耳鼻科の医者がきて、ていねいに調べてくれたが、蓄膿らしい何物もなく、全然故障がなかった。それも一つの精神病のあらわれなんです、と千谷さんは笑った。千谷さんに向い、蓄膿症について、はじめて訴え叫んだ時から、全然とりあわなかった千谷さんの取り澄した顔を、時々癪にさわりつゝ、なつかしむ。
鉄格子のはまった病室で、昏酔からさめ、不自由な歩行も次第に治ると、全身のかゆみも荒れた皮膚も拭うように消え去っていた。まもなく、私は、急速に外界をなつかしみだした。私は千谷さんの許しを得て、後楽園へ野球見物を日課にしたが、私のなつかしんだ外界は、去年の秋に眺めくらしたアルプスであった。アルプスの麓で、あまり熱くない湯につかりたい、と思った。視覚の衰えが今も尚最も治らないようである。然し、それよりも、心の奥に、大いなる怒りが燃えつゞけて、治ることがないようである。ゲヘナの火だろう。私は放心からさめて、苦笑しながら、こう呟くのが、鉄格子の中の時から、癖になりだしていた。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第四号」
1949(昭和24)年10月25日発行
初出:「作品 第四号」
1949(昭和24)年10月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
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