た時に見苦しい振舞ひのないやうに。まことに悲しい思ひであるが、彼らがそこまで心を配らなければならないのも、心構えとしては当然かも知れない。
 私は然し思ふのである。ムダなことだ、と。勝つか、負けるか、試合の技術に全力をつくすだけでタクサンぢやないか。ほかは余計なことである。全力をつくし、負けて、泣きくづれたつて、いゝぢやないか。名人ともあらうものが、負けて、泣いて、とりみだして、といふ、さういふ批評の在り方が間違つてゐるのである。
 私は先日、刑務所からでゝゐる雑誌をもらつた。その中に、死刑囚についての座談会があり、刑務所長やら教誨師やらが死刑囚を語つてゐるのだが、死につくときの死刑囚の態度が立派だといふことを述べて、死に方が立派で、とりみだしたところがないために、その人間が魂の救はれた人であり、まるで英雄のやうにさへ語られてゐるのであつた。それに対して、小川といふ人が、たつた一人、かう云つてゐる。
「さうかなア。立派に死ぬといふことが、そんなに偉いことなのかなア」
 この人のつゝましい抗議は、この座談会では一顧も与へられてゐないのである。名人戦の参会者も同じことだ。死に方、負け方が見苦しくないなどゝ、ひそかに感嘆をもらしてゐるのである。かういふバカバカしい人々にかこまれて、見苦しくない死に方、負け方などに執着してゐる塚田が、気の毒でもあつたが、私はバカバカしくて仕方がなかつた。
 とりみだして、泣くがいゝぢやないか。変なところへ気を使はずに、あげて勝負に没入するがいゝぢやないか。そんなことよりも、将棋そのものの術をはなれて、相手の時間ぎれなどを狙ふ策戦の方がアサマシイぢやないか。私は、塚田は敗ける性格であつたと思ふ。はじめから圧倒されてをり、負けるべきことを感じてをり、はじめから小股すくひを狙つてをり、そして負ける者のあの気魄、負けボクサーのヤケクソのラッシュをやつたゞけの闘志であつたと思ふ。彼は対局のはじめからアガッてゐて、最後まで平静をとりもどしてゐなかつた。
 誰かゞ木村に云つた。
「持ち時間を長くしなきや、いけませんね。名人戦に時間に追はれるなんて、ひどいですよ。せめて名人戦だけは」
 と、月並な言葉であつた。なぜなら、誰しも云つてゐる言葉であるし、木村自身が、二年前、名人位を失つた時に、アア、時間に負けた、と叫んでゐることでもあるからである。
 ところが、この時の木村の返事が変つてゐた。彼は無造作に答へた。
「イヤ、君。時間はいくらあつたつて、同じことだよ。時間がたくさん有りや、はじめのうちに余計考へるだけのことで、どのみち終盤で時間がつまるのは、おんなじさ」
 仰有《おっしゃ》いましたね、といふところだらう。これだけ考へが変つたゞけでも、この二年間は木村にムダではなかつたのだらう。
 木村と塚田は自動車で帰つた。私と大山は肩をならべて、まだ人通りのすくない濠端から東京駅、京橋へ歩いた。私たちは毎日新聞の寮へ行つて、酒をのんだ。私はまだ二十七の風采のあがらぬこの小男の平静な勝負師が、なんともミズミズしく澄んで見えて、ちよッと一日つきあひたい気持がしたからであつた。



底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
   1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第一二号」
   1949(昭和24)年8月20日発行
初出:「別冊文藝春秋 第一二号」
   1949(昭和24)年8月20日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月11日作成
2009年6月20日修正
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