かつた。
「なんぼうでも、手はでゝくる。きはまるところなしぢや」
と、土居八段が、もう研究がイヤになつたか、大きく叫んで、ねむたうなつた、研究はヤメぢや、といふ意志表示をやつた。そのとき、十二時五分前だ。
持ち時間があといくらもない木村が、又、長考にはいる。八段連の研究によれば、いよいよ四筋の戦ひとなり、塚田が三八へ銀を打つて、木村の飛角が逃げる段どりとなるのである。この筋を最も早く見出した原田によれば、形勢不明、戦ひはその先だといふことである。
某社の人が私のところへゼドリンをもらひにきたが、ちよッと声をひそめて、
「坂口さん、今、木村前名人がフラフラと便所へ行つてますがね。ひとつ、前名人にもゼドリンを飲ませてくれませんか」
「疲れてゐますか」
「えゝ、なんだか、影みたいにフワフワと歩いて、ちよッと痛々しいですよ」
「さうですか。ぢやア、飲ませませう」
当年四十五才の木村は、夜になると、疲れがひどい。午前二時の丑ミツ時が木村の魔の時刻と云はれて、十二分の勝ち将棋を、ダラシなく悪手で自滅してしまふのである。今期名人戦の第一局がその一例で、かうボケちやア、木村はダメだと私が思ひこ
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