いやうなドロンとした顔をしてゐたが、私が升田のことを云ふと、
「僕は升田は怖くないです。今まで升田に負けたことはありません」
 と、きびしく云ひ放つた。彼がこんなに力のこもつた云ひ方をしたのは珍しい。それはたしかに升田は怖くない、といふハッキリした気持があつてのやうであつた。
 神がゝりの升田は、鋭い直観を重ねたアゲクに、いつの間にやら、自分を自分の縄によつていましめて、そのアゲクが、去年の塚田升田五番将棋で、敗れ去つたのであらう。その時から、彼は外面、益々塚田の棋風をしたひ、塚田強し、と云ひ、塚田を親友とよび、塚田と親友になつたと云ひふらしてゐるものゝやうである。
 つまり、升田の心は、まだ自立してゐないのである。自分一人で立ちきるだけの自信がないのだ。彼が塚田強しと云ふのは、木村大山をめぐつてのことであり、木村大山を完全に否定するだけの自信の欠如からくるところである。彼が木村怖るゝに足らず、大山いまだ至らず、と云ひ放つ時、イヤ/\さうではない、といふ声を最も敏感に聴いてゐるのは彼であつた。彼は不当な気負ひによつて心ならずも怖るゝ者を怖れずと云ひ、その犯罪感を自分一人で支へきれずに、塚田を共犯に仕立てゝゐるのであつた。そして、又、アゲクには、塚田強しといふことを、実在の事実として、自ら負担せざるを得ないやうになつてしまふのであつた。
 私は塚田を見ると、ふと思ひだしたことがあつた。私の近所へ火野葦平が越してきたが、その近くに塚田正夫といふ表札のかかつた家があつた。戦災後にできた安バラックだから、もとより将棋名人の新たに住む家である筈はない。けれども、それを思ひだしたから、
「僕の近所に塚田正夫と表札のでた家ができてね。六畳と三畳二間ぐらゐのバラックだから、名人の新邸宅とは思はなかつたが、同じ姓名があるものだと驚いたよ」
「案外、かこつてゐるのかも知れないぜ」
 と原四郎がひやかすと、塚田はショボ/\と酔眼をしばたゝいて、ニヤリとして、
「僕もそんなことをしてみたいと思ふけど、うまく行かなくつてね。ほんとに、してみたいんだ」
 と、云つた。なんとなく板につかない。そのくせ本人の真剣さは分る。中学生がお金持ちになつて、大人なみのことをやらうと力んでゐるやうな恰好であつた。
 話が翌々日の対局にふれた。
 私は第一回戦に木村がボケて自滅した新聞記事を読んで以来、この名人戦に興味を失つてゐたから、
「木村があゝボケちやア、見物にでかけるハリアヒもないよ」
 と云ふと、実に、その時であつた。塚田升田の態度が同時に改まつた。そして、二人が、まつたく、異口同音であつた。
「イヤ、今度の三局目はさうぢやなかつた」
 升田は坐り直して、名人戦一席の浪花節でも語るやうにギロリと目をむいて、唸るやうにあとを続けた。
「第三局は驚くべき闘志だつた。負けて駒を投じてからも、闘志満々、あとの二局を見てゐろ、といふ凄い気魄がこもつてゐた。今までの木村ぢやない。驚くべき気魄だ」
「今までの木村ぢやない」
 と塚田が和した。驚くほどキッパリした言ひ方であつた。
 それは私に色々の思ひを与へた。まつたく、異口同音であつた。しかも、二人の態度が同時に改まつて、私の言葉をきびしく否定したのである。反射的に、そゝつかしいほどセッカチに物を言ふ升田と、感情を表はすことのない塚田の二人が、この時に限つて、まつたく同じ一人のやうな物の言ひ方をした。木村の闘志、この次を見ろといふ凄味のある気魄、今までの木村ではないといふ実感が、歴然と頭にしみ、木村の鬼のやうなマッカな顔が彷彿とした。
 塚田までが、反射的に、態度を改めて云ふからには、よほどのことであらう。それにひきかへ、塚田の方は、翌々日の対局をひかへて、これでいゝのだらうかと私は思つた。女をかこつてみたいなどゝ、変に真剣味のこもつた云ひ方をするところに、塚田の不安定な気持がこもつてゐることなどが、私の頭によみがへつてきた。
 木村が名人位を失つたころのオゴリたかぶつた様とアベコベである。私は塚田が第四局に負けるだらうと思つた。然し、勝つかも知れない。けれども、もしも第四局を失つたら、第五局は必ず負けると思つた。なぜなら、木村が名人位を失ふ時に漠然と「時代」を感じて敗北の予感に怖れたよりも、もつとノッピキならぬ切実さで、塚田は追ひつめられるに違ひないから。なぜなら、十年不敗の木村が塚田の実力を怖れたよりも、今日の塚田は十年不敗の木村の実力を知つてをり、その木村が闘志と気魄で第五局目の彼を威圧するに相違ないからである。モミヂの二階では、まだ闘志を感じてゐるだけで怖れずに済んでゐるが、四局を失つたあとの五局目では、ノッピキならぬ恐怖の対象となつて彼の前を立ちふさぐに相違ない。
「第五局があると思つちやいかん。あとはないものと思
前へ 次へ
全14ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング