かつた。
「なんぼうでも、手はでゝくる。きはまるところなしぢや」
 と、土居八段が、もう研究がイヤになつたか、大きく叫んで、ねむたうなつた、研究はヤメぢや、といふ意志表示をやつた。そのとき、十二時五分前だ。
 持ち時間があといくらもない木村が、又、長考にはいる。八段連の研究によれば、いよいよ四筋の戦ひとなり、塚田が三八へ銀を打つて、木村の飛角が逃げる段どりとなるのである。この筋を最も早く見出した原田によれば、形勢不明、戦ひはその先だといふことである。
 某社の人が私のところへゼドリンをもらひにきたが、ちよッと声をひそめて、
「坂口さん、今、木村前名人がフラフラと便所へ行つてますがね。ひとつ、前名人にもゼドリンを飲ませてくれませんか」
「疲れてゐますか」
「えゝ、なんだか、影みたいにフワフワと歩いて、ちよッと痛々しいですよ」
「さうですか。ぢやア、飲ませませう」
 当年四十五才の木村は、夜になると、疲れがひどい。午前二時の丑ミツ時が木村の魔の時刻と云はれて、十二分の勝ち将棋を、ダラシなく悪手で自滅してしまふのである。今期名人戦の第一局がその一例で、かうボケちやア、木村はダメだと私が思ひこんでゐたのは、そのためだ。かうなると、肉体力は勝負の大きな要素である。
 私は一年半ほど前に、木村にゼドリンを飲ませて、勝たせたことがあつたのである。例の名古屋に於ける木村升田三番勝負である。木村の疲れが痛々しいので、夕食後にゼドリンを服用させた。そして、木村はこの対局に勝つた。翌朝彼は、どうも、あの薬は、よく利きますが、あとが眠れなくつて、と、目をショボ/\させてゐたものである。碁将棋の連中ぐらゐ、この薬を用ひるに適した職業はない筈であるのに、妙に、誰も知らないから、不思議である。彼らの対局は一週聞か十日に一度であるから、習慣になることもない。そして彼らは、云ひ合したやうに、深夜の疲れを最も怖れてゐるのである。そのくせ、この薬を誰も知らない。
 さすがに若さは別で、四十ちかい連中以上が十二時すぎるとノビてしまふのにひきかへ、大山、原田、碁の藤沢などは、翌朝の五時になつても、目がパッチリと、疲れの色がほとんどなかつた。
 その大山でも私のゼドリンの小箱を物珍しさうに手にとつて眺めて、
「これのむと、ほんとに、ねむくないのですか」
「さうです。だけど、君や藤沢君の顔を見ると、ちッとも疲れ
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