。自分がこの年まで生きてきた小さな環境は、自分にとつてはかけがへのないものであるから、人の評価の規準と別に小さく穏やかにまもり通して行くことは自分の「分」といふものだと思つてゐた。その「分」を乗り越えて生きる道を探求するほど非凡でもなく、芯から情熱的でもない。そして小さな反感をとりのぞけば、岡本の狂態にも愛すべきものは多々あつた。
 ところが、ある日のこと、虫のゐどころのせゐで、柄にもなく、岡本に面罵を加へてしまつた。面罵といふほどのことではないが、なるべく自分の胸にしまつて漏らさぬやうにと心掛けてゐたことをさらけだしてしまつたもので、つとめて身辺の平穏を愛す谷村には、自分ながら意外であつた。
 彼は言つた。先生は理解せられざる天才をもつて自ら任じていらつしやる。ところが僕一存の感じで申すと、先生御自身そのお言葉を信じてをられるやうでもありませんね。知られざる天才は知られざる傑作を書く必要がありますが、先生は知られざる傑作を書く情熱や野心よりも、知られざる官能の満足が人生の目的のやうだ。先生は僕たちに対して御自分のデカダンスは芸術自体の欲求する宿命のやうに仰有る。さすれば僕たちが芸術へ
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