界で、ワイルドに気分的な敗北を感じ、不安にみちびかれてゐたやうです。あるときワイルドはジイドの唇を指して、なんといふ毒々しく堅く結んだ唇だらう。まるで私は決して嘘をつきませんとしよつちう言ひ張つてゐるやうだと憎たいをつきました。私はそれを書いてゐるジイドの文章を読んだとき、さう言ふワイルドの面影が躍るやうな目覚ましさで浮かんだやうに思ひましたが、それも実はその文章の行間にひそむところのジイドの反感と軽蔑をまぜた失笑のせゐにほかならぬやうに思ひ直したのです。実際に当つて文章にさういふニュアンスがあつたものか、私の生活態度や視覚の方向がさういふことを勝手に捏造して感じたがる傾向にあつたものか、ちよつと判断がつきかねます。
ジイドはワイルドが出獄後の別人の如く恐怖を知り内面的な地獄に堕ちた姿も書いてゐるのですが、ワイルドの様な姿に向けられたジイドの多少の共感と愛情自体が、いはばそれも復讐の結果のやうに思はれたのです。然しながらその時すら、やつぱり敗北してゐるのはひとりのジイドだけであつたと思はずにゐられなかつたのでした。ワイルドは内面的な地獄に堕ちても、その堕ち方が、畢竟するにやつぱり傍若無人でした。それはジイドの及びがたい、否ジイドには有り得ないものなのです。結局彼はその若かつた時代に、彼が当然さうでなければならなかつた自然の不安と敗北を、ワイルドを手掛りにして深めるやうなめぐりあはせになつてゐたと言ふべきでせうか。そのやうに言ひ得ることも事実でせう。
書き忘れましたが、たしか誰かの文章に、芥川龍之介のうつる活動写真があつて、その写真の中では芥川が臆面もなく小僧のやうに木登りをしてみせるさうです。それを見て不快だつたといふ意味が洩らしてあつたと思ひました。私も甚だ同感でした。恐らく私もそれを見たら、同じやうに不快を覚えてしまふでせう。
芥川は不均斉を露出する逆方法によつて、先手をとりながら危なさを消す術の方を採用してゐたのでしたが、日本人の生得論理と連絡のないニヒリズムの暴力の前では、映画の中で行ふ種類の木遁《もくとん》の術の手並でも、却々もつて彼等のひねくれた眼力を誤魔化し、安定感を与へてやることはできません。さらに今日の時世が、そのやうなそれ自体としても決して愉快ではない眼力を一層深めさせてもゐるのでした。
私が縷々万言を費したことはたかが表情に就てですが、
前へ
次へ
全16ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング