塚田八段九十六分考へて、五五馬、これが新手であつたさうだ。
 今度は名人が考へこんで十分ほど後、
「名人、あと二時間五〇分です」
 名人かすかに、ウン、と云ふ。その時、九時四十分であつた。
 両棋士、酒に酔つ払つてゐるやうに見える。顔が薄く赤らんで、目がトロンとして、額にシワ、眉根をよせ、脂が浮いてゐるやうだ。
 塚田八段、腹痛のやうに左手で腹をおさへ、やゝうつむいて、眉をよせ、目をとぢてゐる。雨だれの音が一つ、ひどくキワ立ちはじめた。外は霧雨なのである。
 塚田八段が立ち上つた。足がしびれてゐるらしい。立ち上つて、ふらふら、ふみしめて、ひきずりながら、モーローと立ち去る。そのとき、
「名人、二時間半です」
 名人全然返事なし。口をあけてゐる。タバコの右手をかざしてゐる。その手と、あいた口が、かすかに、ふるへてゐる。
 塚田八段が戻らない。新手の五五馬に名人の長考が分りきつてゐるのだらう。名人例の持ち時間いつぱい使ひきつて考へこむんぢやないかと私も素人考へに思つた。塚田八段が何をしてゐるのだか様子を見ようと思つて、私も便所へ立つたが、便所にゐない。応接間にも、食堂にもゐない。ソフ
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