卑怯者と云ひ、弾丸に猪突して全滅、自らも戦死した板倉伊賀守を英雄と称してゐる。これが徳川時代の兵法であり、日本の民族的性格でもあるのである。
宮本武蔵は勝負の鬼であつた。彼は勝つためにあらゆる術策を用ひ、わざと時間におくれて相手をじらし、あるひは逆に先廻りし、岸柳《がんりゅう》が刀の鞘《さや》を投げるのを見て「岸柳の負けだ」と叫んで怒らせる。剣術のレンマに於て細心チミツであるのみならず、あらゆるものを即席に利用し、全霊をあげ、たゞもう勝つための悪鬼であつた。
然し晩年の武蔵は五輪の書をかき、剣の術ではなくて道をとき悟りをとき、彼は太平といふ時代に負けてしまつたのである。剣術は悟りをひらく手段ではない。剣を用ひて勝つ術であり、悟る手段としては参禅思索ほかにちやんと専門がある。
木村名人は壮年の宮本武蔵のやうな人だと私は思つてゐた。いつぞや双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると最後まで押されてしまふ、序盤に位を制すること自体が名人たる力量でもあるのだから、横綱だから相手の声で立つべきだといふことは如何なものであらうか、といふ意味のことを述べてゐたのを見て、私は感心したものだ。巷間つたへるところの風聞、もつぱら勝負の悪鬼の如き木村名人のすさまじさであり、これも名人戦であつたか、神田八段との対戦で、神田八段が十五分おくれてきた時、対坐して対局にさしかゝる時に、記録係に向ひジロリと目をむいて、十五分、神田八段の持時間から引いておけ、と言つたといふ。胆汁質の神田八段、ハラワタが煮えくりかへつたであらう、まことに勝負の悪鬼、勝負はさういふものだ。本来和気アイアイなどといふものではあり得ない。なぜなら、将棋は専門棋士にとつては遊びではない。生命をさゝげた仕事、それに憑かれてゐるのだから。
モナミの応接室にひつくりかへつてゐるところへ倉島君がやつてきたが、こいつは君、単に名人位だけぢやないんだ、生活の問題があるんでね、名人位を失ふと収入が違ふ、一度ボーチョウした生活をちゞめるのは辛いからな、文壇の老大家連はこの点でこぞつて木村名人に同情してゐるんだね、と言ふ。このことは朝日新聞のK氏からもきいてゐた。妻子の生活がかゝつてゐるから必死ですよ、と木村名人は言つてゐたさうだが、私は不覚にして、そこまでは思ひ至つてゐなかつた。私は変に切なくなつた。金銭といふ奴はまつたく切ない奴だ。老大家のみならず私の如き青二才でもその点では木村名人に同情するにヤブサカであるべき筈はない。
私は何分もうすこしで心臓がつぶれるところであつたのだから、名人戦がこんなにセチガライ性質のものぢやア、どうも心細くなつてきた。然し案ずるに、勝負は本来かくの如きものであるべきで、そこに生存が賭けられてゐる一生の術であり仕事だから、それぐらゐ、当然の筈でもあつた。往年武蔵の真剣勝負、生命を賭けたあの構へが、つまり勝負本来のもの、芸本来の姿なのである。
「然し、君」
と倉島君は言つた。
「君の狙つてゐることはね。こいつは、外れるぜ。名人はもう大人になつてしまつたからな。勝負の鬼といふのは、昔のことだ。今は君、政治家、人格円満な大成会党主だよ」
★
倉島君の言葉の通りであつた。心理の闘争、闘志が人間的に交錯するといふことが、この勝負には完全になかつた。たゞ沈痛な試合であり、まつたく沈黙の勝負であつた。
始まるからといふので倉島君の案内で手合の日本間へ通り、名人と塚田八段に挨拶して座につく。坂田八段をモデルの芝居を上演中の辰巳柳太郎、島田正吾、小夜福子三氏が見学に来てつゞいて座につく。
「では、もう、そろそろ」
と、木村名人。小学校の一年生の徒歩競走の出発のやうなとりとめもない気配のうちに勝負がはじまつてゐる。十時二分。
先手の塚田八段、第一手に十四分考へる。途中で便所へ立つ。木村名人は私達に向つて、あなた方は洋服だし先が長いことだからどうぞお楽に、と言つたりする。
塚田八段七六歩(十四分)木村名人三四歩(三分)間髪を入れず塚田五六歩、木村七分考へて五四歩、それから間髪を入れず二五歩、五五歩、二四歩、同歩、同飛、三二金。
私は碁の大手合は時々見たが、間髪を入れず、といふのはメッタにない。碁の定石《じょうせき》は極めて不定多岐多端だが、将棋の定跡はある点まで絶対のものらしい。然し終盤に及んでからも、四五手間髪を入れず応酬し合つた時があつた。碁の方では分りきつた当りを継ぐのでも四五十秒は考へるやうだ。名人位がひつくりかへるといふ終盤の勝負どころへきて、全く間髪を入れず、スースースーと駒が一本の指に押へられて横へ前へすべつて行く。私は変な気がした。ひどく宿命的なものを感じさせられたからである。名人が駒を動かしてゐるのぢやなしに、駒が自らの必然の宿
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