の名人とか実力十一段とか、伝説的な評価が我々素人の有象無象《うぞうむぞう》に軽率に盲信される、自らひそかに恃《たの》むところのある専門棋士には口惜しい筈で、
「名人も高段者も、実力は違やせん。研究ぢや。研究が勝つんぢや」
 土居八段は言ひすてたが、
「わしら老人はダメぢや。若い者はよう研究しよる」
 塚田八段の深い研究、三十八手といふ異例の負け将棋を名人戦といふ大事の際に買つてでた自信の程が、たのもしくて仕方がないといふ様子であつた。
 毎日新聞には速報板がでて加藤八段が解説してゐる由だが、四時間十三分の長考ぢや解説が持ちきれない、一時間半ひきのばし喋つたが後がつづかない、ネタを送れといふ飛電が係の記者にくる由だけども、これは無理だ。記録係まで散歩にたつ、両棋士は動きも喋りもしやしない。
 それでも木村名人は十分おきぐらゐに構へが動く。
 左手を前へついてグッと盤面へのしかゝり、右手にタバコを持つて頭の高さにマネキ猫みたいにかざしてゐる。
 今度は左手を後について、手によりかゝり、あらぬ空間を見つめてタバコをふかす。両膝を立て、それを両手でおさへて、タバコを口にくはへてパクパクやつてる。
 すると次に坐り直して、上体をグッと直立、腰をのばし、左手を袂に入れ腰に当て、そのヒヂを張り、右手にタバコを高くかゝげて盤面をにらむ。
 庭を眺めて、アクビをしたり、セキバラヒをしたり、急にフラ/\立上つて、ぼんやり庭を見てきたり。
 塚田八段は殆どからだを動かさない。概ね膝へ両手をのせ、盤面を見下してゐる。別に気力のこもつた様子ぢやないが、目が疲れてにぶく光り、ショボ/\してゐる。
「どれくらゐ考へたア」
 名人がさうきいた。だるさうにタバコをくはへて、かすんだ目で記録係を見た。
「三時間三十三分です」
 名人便所へ立ち、戻つてきて、タオルで顔をふき、口の上を押へてゐる。茶をのみ、茶碗を膝の上にだいてる。膝を立て、両手を廻して膝をおさへ、クハヘタバコ、パクパク。坐り直して、袂から左手をさしこみ、腰に当てグッとヒヂを張り、上体直立胸をそらして、
「どれくらゐ考へました」
「二百五十二分です」
 そのとき記録員の顔ぢやなしに、頭の上の空間をボンヤリ見て、
「あゝ」
 舌つゞみのやうな音を口中に、そして、すぐ指した。五六歩。四時間十三分が終つたのである。塚田八段すぐ同歩。そのとき木村名人、
「考へても……」
 何か呟いたが、きゝとれない。そして、すぐ八八角成、同銀、三三角、二一飛成、八八角成、バタバタとまるで夕立に干物《ほしもの》をとりこむ慌たゞしさ。名人茶碗をとりあげて一口のんで、
「その手はどれだけ考へたつて?」
「二百五十三分。計二百七十三分です」
「ウワ」
 塚田八段右手をタタミにつき、左手膝の上、盤を見つめて六分、キュッと駒をとりあげて、七七角、打ち終つて、ウウ、セキバラヒ、打たない前と同じ姿勢でジッと盤を見つめる。いつまでたつても見つめてゐる。まだ自分の手番のやうに、眉にシワをよせ、今の手の効果が気がかりで思ひきれない様子であつたが、ふとボンヤリ顔をそらして灰皿のタバコをつゝいて煙を消して、ウ、ウンとセキバラヒをした。その時チラリとあげた目にひどく決意がこもつてゐた。
 フーッと息をして、背のびをした。塚田八段の姿勢がそのとき始めて揺れたのである。
 木村名人は上体直立、胸をはつて腕組み、口にタバコをくはへて盤上を直視してゐたが、腕組みをといて、フウワリと手がのびて、八九馬。間髪を入れず一一角成、五七桂。打ち終つて木村名人庭を見る。つゞいて、チョッチョッと舌つゞみを打ちながら、部屋のあちこちを見廻す。その目は腫れたモーローたる目である。
 塚田八段十分考へて、五八金左。すぐ五六飛、六八桂、三分考へて四九桂成、同王、五八飛成、同王、六二王。
 例の夕立に干物のバタバタバタで、私のかねての狙ひ、どこで手が変るか、その手が変つてゐたのだが、私にはそれが分らぬ。私は手を見てゐるのぢやなしに、打つ人の顔を見て、顔で判断してゐるのだが、劇的な何物もなく、たゞバタバタバタの一瀉千里、片がついてゐたのだ。五六飛の次、二十七手目、六八桂で変つてゐた。
 私は将棋が分らないから、どこで変るか、そんな見世物みたいの興味で見てゐるほかに手がないのである。加藤八投の解説によると、六八桂、今までにある手、当然の指し手で、三十八手負けの塚田八段の指し手がひどすぎたのださうだ。こつちはさうとは知らないから、どこで変るか、ウノ目夕カノ目、面白づくで打ち込んでゐて、バカを見た。
 塚田八段の長考がはじまる。ちやうど三十分すぎたとき、木村名人が記録員に、
「相撲へ行つたかい」
「ハア?」
「相撲へ行つた」
「いゝえ」
 そこで、とぎれる。名人膝をたて、手をまはして膝を抱へ
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